体験的上達論 一度下手になる

日々あれこれ

 英語の勉強をしている。
 がんばってい割には成果が出ていない気もするが、己の記憶力を信じて努力を続けるしかない。

 今、文法の問題をやっている。
 受験対策などでよく言われるように、一冊の問題集を何度も繰り返す方法で進めている。

 正直に話せば、1回目に取り組んだ時、ほとんど分からなかった。
 空欄に入る言葉を、四択の中から選ぶという問題なのだが、カッコの中の空欄以前に、書いてある部分が分からない。
 意味の分からない単語ばかりだし、どこまでが主語でどこが述語なのかというようなことすら分からなかった。
 だから、空欄に適切なものを選びようもなく、要するに「勘」で選んでいる状態だった。何となく合っていそうなイメージのものを選ぶ。
 当然のごとく、結果はよくない。

 解いた後に解答を見る。解説も併せて見る。その場では分かったような気もするが、時間をおいて再度解いても解けないような状態だった。

 2巡目、3巡目くらいになると、何となくパターンが読めてくる。
 文章の意味が理解できなくても、前後の関係である程度の選択はできるようになってくる。難しいことは分からなくても、とりあえず単純に原則に当てはめていく。
 これだけでも正答率ははね上がった。
 時折パターンを外すような例外的な問題が出てくるが、それらは少数だから正答率は上がる。これで正答率は80%弱まではいきそうである。

 このころから覚えた単語の数も増えてくる。
 そうすると、今まで読めていなかった問題文の意味も少しずつ理解できるようになる。
 「なるほど、こういう意味の文章の中で、求められる単語を探すわけね。」というように思考も成長してきているようだ。
 どこが主語で、どこが述語にあたるのかも分かるようになってくるとかなり意味がつかめるようになってきた。

 そうすると、正答率も上がりそうなものだが、そうではないのだ。
 今まで単純作業のように選択していたものを、意味を考えるようになったせいで、むしろ選択に悩むようになった。
 そして・・・・今まで間違えたことのような問題でミスをすることが出てきた。

 なんということだ。理解が深まると正答率が下がるということなど、あってはならない現象だろう。

 しかし、経験上これは理にかなっている。

 今までの解答は、単純作業だった。「前置詞と前置詞の間には名詞を入れる」というような原則にそって、意味がなんであろうが、「名詞っぽい」ものを選んで入れていただけである。
 (今でも、これが克服されたわけではないが)
 これは言語を理解している状態とは言えない。このような作業を延々と繰り返しても、英語が得意になるわけではない。
 この四択問題もある程度までは正答率もあがるだろうが、さまざまな例外に対応することを考えれば絶対に満点がとれるようにはならないだろう。

 それが今、ここにきてようやく英文を言語としてとらえようという思考になり始めている。
 頭の中の思考パターンが変わってくると、今までの方法では混乱する時期がある。
 今までの知識や技能のネットワークに、新しいものを入れようとすると、脳のネットワークが新しい秩序を作るために一時的に混乱するのである。

 バスケットボールでドリブルシュートの練習をする。
 練習ではとても上手にできるようになったとする。だからといってゲームの中でその能力を100%発揮できるかどうかは別問題なのである。
 ドリブルシュートを巧みに行うという脳の神経ネットワークがある。
 これとは別に、ゲームの中でどのように動き、得点を入れていくかというネットワークもある。両方は本来同じネットワークに組み込まれるべきなのだが、ドリブルシュートの練習ばかりやっていると、その能力をつかさどるネットワークが半ば独立する。
 ゲームの中で生かしていくという技能を一時的に棚上げをして、ドリブルシュートだけを単独で上達させてきたからである。

 だから、ゲームの中でドリブルシュートを使いこなすようにするためには、その二つを統合するような練習システムを取り入れなければならない。
 その段階では、ドリブルシュートを単独で見れば、あたかも下手になったかのように見えるのだ。

 個々の技術を習得した後に、その技術を汎用性の高いものに転化しようとする段階で、一時的に下手になったように見えてしまう。
 それは統合化に伴う、脳内ネットワークの一時的な混乱、と勝手に定義づけている。

 授業を上達させるために模擬授業に取り組み始めた時にも同じような混乱に直面した記憶がある。
 模擬授業に取り組む前からやっている授業には、当然のごとく「自分流」が中心として存在する。全体の組み立てや話し方、子どもへの対応など、意識するしない関わらず、自分の中で体験的に積み上げてきた方法が脳の中に存在する。
 そこに模擬授業を通して、新しい価値観や技術を自分の中に取り入れようとする。
 すると、これまでの自分のやり方と、新しいやり方が脳の中で競合をおこしてしまう。「あれ?こんなとき、どうするんだっけ?」となってしまう。

 あの時は、「模擬授業をやり始めたせいで、むしろ授業が下手になった」と思っていた。

 それでも、辛抱強く繰り返していくと、やがて脳の中でネットワークが統合してくる。自分らしさを残しつつも、新しい技能ネットワークが脳の中に形成されるのが実感として分かってきた。

 すでに一定量の蓄積が脳に存在するものの上から、新しいものを入れようとするときに脳はネットワーク統合のために混乱が生じるということを知っておくだけでも、今後の学びに生きる。
 先の英語にもどれば、私自身は辛抱強く続けることが一番の方法なのである。

 単純作業で品詞を選んでいる状態と、文意のつかみつつ(覚えた単語を駆使しながら)正しい言葉を選んでいくことを脳の中で統合するまでは、練習し続けるしかない。
 いまやっている問題集も、あと何巡か繰り返せば今とは違った風景が見えるような気がしている。

 そのために今はたとえ一時的に点数が下がったように見えようとも、脳内のネットワークの精度を上げていくために、新しい情報をぶち込んでいくしかないのである。

<おまけ>
 こうした学習の上書きは、年齢を重ねるとともに億劫になっていくだろう。今までの自分を多少なりとも否定していかなければ、上達しないからである。

 単なる学習方法の問題ではなく、心理的な抵抗とどう戦うかも学習を進める上での課題である。
 

 
 

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