学級目標は不要

学級経営

学級目標は不要

 学級を組織ではなく、ネットワークと考えたときに、いらなくなるものがある。

 その一つが学級目標である。

 学級は組織ではなく、社会だと考える。
 社会としての理念のようなものはあるだろう。互いが心地よく過ごしていくためのルールやマナーも必要である。

 しかし、組織のようにある共通の目標に向かって力を尽くしていくという考え方は、極力削っていくべきであろう。
 そもそも、学級という場にはそうした組織的な強制力を働かせるべき必要性はないということである。「同じ教室に入ったからには、同じ価値観で、同じものに取り組んでいけ」ということ自体が、子どもたちによっては圧力となっている場合があるのだ。

 ルールややマナーについては、一般的な社会に適用されている内容に準じればいい。
 社会で犯罪とされるものについては、毅然としていくのは当然であろう。いじめや暴力、他人のモノを勝手に使うようなことは全て、社会通念上でもダメなことである。

 給食におけるマナーや掃除道具の使い方、図書館での過ごし方、廊下の歩き方なども社会的なルールやマナーに従えばいい。
 給食当番や掃除割は、現行の制度で子どもたちがしなければ立ち回らない以上、効率よく進められるような段取りを教えることは必要である。
 人の悪口を言わない、トラブルを回避する、トラブルが起こったときには謝罪を含めた対応なども社会通念に従って指導すればいい。
 時間に従って行動することや、場に応じて適切に行動することなども、同じである。(授業時間を守らないと学校全体が崩壊するし、互いが教師の話を聞くことや、真剣に活動に取り組みたいときは、他者の迷惑にならないように静かにすることも学級だけの問題ではない。

 学級を組織としてとらえず、社会としてとらえても、変わらず指導しなければならないことはたくさんある。
 しかし、同質性を高めることや、本来個人的な属性であることを一つに強制するような指導はあってはならないと考えていく。 

 そうすると、教室の正面に掲げる言葉を何にするかは、慎重になる。
 今までに学級で当たり前のように掲示されていた内容に疑問が出てくるものがあるにちがいない。

 一つの例として「みんな仲良く」のような言葉はどうだろうか。
 結論から言えば、不要である。

 この言葉はそもそも「みんなが」仲良く、すなわち学級の全員が自分以外と仲良くしなさいという意味なのか、「みんなと」仲良く、すなわち学級の全員対象に平等に親しくなれという意味なのか、不明である。
 おそらく「みんなが、みんなと、仲良く」となるのだろう。

 このようなことは現実的にはありえないし、教師が子どもたちに強制するものでもない。強制してもできるようにはならない。
 互いに傷つけあうようなことは、人としてそもそも間違っているし、チームで活動や学習をするときに互いをリスペクトしながら接することは、当然のことである。

 しかし、みんなと等しく仲良くするのは別である。
 このあたりが、大人が大多数を占める一般的な社会と、まだ成長途中の子どもたちとでは、全く同一に扱うことはできない。しかし、だからこそ「仲良く」などと簡単に一言でまとめてはいけない部分もあろう。

 このような言葉を教師が安易な気持ちで表明するものだから、学級の中でむしろ軋みが生じるのである。

 「時間を守ろう」というようなルールに相当するものを、学級目標として正面に掲げることはきっと少ないであろう。
 同じように社会の常識として教えるべきことを学級目標にはしないことが多いだろう。

 かといって、「全力を尽くそう」というようなスローガンめいた言葉も実は不適切ではないだろうか。そもそも、学校にいる間にずっと「全力を尽くす」ことは無理である。何をもって全力か、判断もつかない。
 これは教師が「24時間公務員」と言われているような印象に近い。(地元では、服務倫理に従うためにこの言葉がよく出てくる。)

 学級目標を正面に掲示することが管理職によって強制されるところがあったり、担任によってはかなりの時間をかけて準備するような場合もある。
 その学級目標の存在そのものが、学級に同調圧力をかけ、子どもたちに均質化することを求める「装置」になっていないか、検討する時期に入ったと考えている。

 これは今や、中学校や高校で校則が見直されていることと、同じ概念だと考えている。

タイトルとURLをコピーしました