そもそも学級は「集団」「組織」なのか

学級経営

そもそも学級は「集団」「組織」なのか

 いきなりだが、前提から疑おう。
 そもそも学級は、「集団」であり「組織」なのだろうか。

 日本の小学校では、基本的に子どもに学級の選択権はない。保護者にもほとんど選択権はないと言っていい。
 自分の住んでいる地域で、決められた就学年齢に達したら、決められた学校に「所属」することが、自動的に決まる。
 複数ある学級の中で、どの学級に入るか、どの担任にあたるのか、どんな友だちと過ごすのかは、学校が決める。

 一年を通して、変更することもない。

 子どもたちにしてみれば、半ば強制的かつ自動的に、ある建物の中の一つの部屋に詰め込まれ、そこでの生活が始まることになる。
 まさにそれを「義務教育」と呼ぶのだが、今はその強制力を問題にしているのではない。

 子どもたちが、学級に集うための特別な意図や目的、目標が存在するわけではない。
 何かの要望をもって、そこに集ったわけでもない。

 そうした出発点でもあるにもかかわらず、学校が機能しているのは、ひとえに子どもたちの適応力によるところが大きい。
 大人が考えている以上に、子どもたちは環境に適応するようになっている。

 冒頭の疑問に戻ろう。
 そうした子どもたちの集まりを「集団」と呼んでいいのだろうか。あるいは「組織」と呼んでいいのだろうか。

 これまでの学級経営論の中にも、学級は初めただの「群れ」であるから、それを「組織」として高めていくのだという考えはずっとあった。
 新年度開始時期は「集団」「組織」と呼べるものではないという考えは、かなり以前からもある。

(そもそも「群れ」すらないとも言えるが。)

 学級を「集団」あるいは「組織」にしていくことで、教育を営んでいくという思想は、もはや当たり前すぎて誰もが疑問を持たないかもしれない。

 しかし、あえて前提から疑おう。

 今教室にいる子どもたちの集まりは、「集団」でも「組織」でもない。
 たまたま育っている場所と年齢区分が同じだけの子どもたちを、任意で集めたに過ぎない。

 そして、その性質は「卒業」まで変わらない。

 子どもたちにしてみれば、「集団」である必要も、「組織」である必要も、ない。それは学校側(主として担任教師)の作った理由に過ぎない。
 そう扱っていく方が、大人数の子どもたちを指導しやすいという意味もあっただろう。
 あるいは、戦後の教育思想の中に一時期「社会主義」的な内容が色濃く出たときもあったのが原因ではないかと、推測している。(後述)

 誰が強制してきたわけではないが、学級を「集団」や「組織」としてみなすことは、学校教育の大前提となり、今やだれも疑わない。
 そうした考えに基づいて数多くの実践も紹介され、時間と共にその文化が蓄積されてきた。

 戦後教育も長い時間を過ごしてきた。
 今一度、積み上げられてきたこのシステムを根本から疑い、もう一度、学校における教育や指導の在り方を考え直す時期に来ている。



第1章2節 「学級は「組織」より「社会」と呼ぶ方が近い」へ続く

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