教育という名の「仕事」

働き方改革

教育という名の「仕事」

 教師が日々取り組んでいるのは、教育ではない。
 正確に言うと、教育という名の「仕事」である。そこが、保護者が我が子にしていることとの根本的な違いである。

 「仕事」であると定義づけられると、なんだかドライに扱われるようで気分良く思わない人も出るかもしれない。
 しかし、現実を直視しよう。
 そもそも税金を投入され、施設と人を用意し、制度を整えるということ自体が、保護者の教育とは異なる点であることは指摘するまでもない。
 教師への給料も、「仕事」であるから支払われているのである。

 そこに一定の成果を求められているから、システムが整備されるのである。
 すでに教科書を使ってその学年の学習内容を決め、指導計画に沿って授業を教えていることそのものが、そもそも効率性を求めた結果である。
 教科という区分け、単元という内容の特化、時間割というシステム、カリキュラムという計画、年齢による学年の編成などなど、全てこれまでの学校制度の歴史の中で紆余曲折を経て、ベターなシステムを作り上げてきた結果が今日なのである。

 古くからある私塾にしても、家庭教師のような教え方にしても、ずっと昔はもっと勝手にやっていた。そもそもカリキュラムという概念すらなかっただろう。

 もし、学校という制度やシステムがなければ、子どもたちはこれほどに短期間にさまざまなことを習得することはあり得なかっただろうし、その結果社会そのものは今よりも発展が遅れていただろう。
 現在の学校制度にさまざまな課題があるとはいえ、社会へ貢献してきたその役割の大きさは、もっと誇っていいものと思っている。

 ただし、そのシステムの中で自分も育ってきているし、今なお教師として教えているせいで、これが「効率性を求めた結果としてできあがったシステム」という認識がなくなる。

 しかし、再度いう。
 教師のなすべきことは「教育という名の仕事」である。

 ここでいう一定の成果とは、決められた時間と予算の範囲で出される成果だと考えていいだろう。
 はっきり言えば、期日にも、達成率にも数字が必要と言うことである。
 数値化することに抵抗のある教師も多い。

 しかし、医者が完治率何%という数値を出すことに「医師として倫理に欠けている」とは思わないだろう。むしろ、そこに向けて最善の努力を尽くすことにプロとしての見識を見るだろう。

 教師が抵抗があるのは、それが子どもたちへの心への影響があるからだろう。

 しかし、かけ算九九の習得率をいつまでに何%という目標を設定することは可能であろう。能力の習得と心理的な側面は分けて考えるべきであろう。

 あえて辛口で言えば、習得率を上げるために「叱咤激励」や「山のようなプリントと宿題」というような指導法しか想像できない教師は、数字を上げることが勉強嫌いにさせることとイコールかもしれない。
 今、世の中にはさまざまな指導法が書籍にもネットにもあふれている。 

 かつて「跳び箱の指導法」について誰でも跳ばせられる方法が広がったときに、あろうことか「跳び箱など跳べなくてもいい」と言っていた人がいた。
 その無責任さにあきれ、今なお覚えているくらいである。

 子ども自身が精いっぱい努力をしてもできないことを責めているのではない。そんなことは、この仕事をしている人であれば誰でも分かっている。
 できるようにさせることのできなかった教師がその責任を感じたり、反省したりすることもあるかもしれない。

 しかし、現場の人間だろうが、行政職だろうが、研究者であろうが、「できなくてもいい」と言ってはいけない。

 それも「跳ばせるための簡単な方法が目の前にある」という主張に対しての反論だから、ますます意味が分からない。(今でも分からない。)
 個人の考えとして、指導要領に示された教材の中に不要なものがあると思うことは、自由だろう。
 あるいは、現場での教材の吟味という点で検討をなす場であれば、そうした意見もありだろう。

 そうではない。効果的な指導法がある、という意見への反論なのである。

 よく「子ども自身に試行錯誤させることも大切」という主張がある。
 それも一見理にかなっている。
 しかし、これも現場での子どもたちの気持ちを少しも理解していない。

 子どもたちに試行錯誤させるという指導法は確かに存在する。
 しかし、簡単な指導法が目の前に存在するのである。さっさとできるようにさせてあげればいいのだ。特に初等教育では、達成感の積み重ねが、次の努力へのエネルギー源となるのだ。
 そして、できるようにさせたところで、もっと難度の高い技で試行錯誤させればいい。

 先の跳び箱で言えば、開脚跳びができなかった子どもたちを、教師の指導ですぐに跳べるようにさせるたとする。
 その瞬間は、子どもは受け身の指導を通してできるようになっただけで、大した努力をしたようには見えないかもしれない。
 しかし、開脚跳びができた子どもたちは、何度も何度も跳んでいくうちに、やがて次の技へと向かおうとしていくものだ。開脚跳びで終わるわけではない。
 子どもたちの挑戦は、その後もずっと続くのであ

 残念ながら、現場には(一定の研究者も含めて)このような「できなくていい」という意見がまかり通る現実が今なおある。

 医者であれば、優れた治療法と薬があるなら、それを使ってすぐに回復させるだろう。
 それが医者の倫理観であろうと思う。

 より短い時間で、より少ない負担の中で、最大の効果を上げることは「仕事」を進める上で重要な視点である。教育も同じである。

 先の跳び箱で言えば、実効性の高い指導により開脚跳びが跳べるようになった子どもは、次の難度の高い技に挑戦することができるのである。

 同じ跳び箱の授業においても、その子の満足度は大きく違うことは誰でも想像できるだろう。

 同じことが、漢字練習などにも言えるのだ。
 毎日のように漢字練習帳に時間をかけて書かなくても、指書きを確実に行えば多くの子どもたちが簡単に漢字を習得できるようになる。

 それにも関わらず、今なお漢字練習帳にこだわる教師は、かなりの割合で存在する。
 効率的な漢字の習得方法を身につけさせれば、空いた時間と精神的な余裕で、もっと難度の高い学習が可能なのである。

 計算ドリルも然りである。
 今は書籍でもネットでも、工夫された指導法はいくらでも存在する。
 (効果は真偽はよく分からないが。)

 子どもたちに負担をかけさせずに習得させていくことで、さらに意欲を高め可能性を広げることができる。
 自分の好みや、「昔からやっているから」というような理由で、効果が疑問視される指導法に執着するのは、心がけとしてはよろしくないのではないだろうか。

 短い時間と少ない手間で、子どもたちができるようなる。それこそが、教育という名の「仕事」に携わる教師のつとめであろう。
 指導によって生み出された時間とエネルギーの余力を、さらに次の成長をつなげていくことができるのだから。
 仮に一時的な試行錯誤を経験させるとしても、それは最終的に「できる」ことへの布石であるべきだ。

 もちろん、あらゆる学習課題や問題に、簡単な解決方法があるわけではない。
 今なお多くの教師が工夫を重ね、研究を続けていることも多いだろう。新しい課題も次々と生まれてきており、それらに特効薬があるわけでもない。

 しかし、「子どもたちをできるようにさせる。それもできる限り、短時間で効率的な指導方法を開発し続ける」ことが、仕事(つまりプロ)としての教師の矜持であろうと思っている。

 それが、実は教師自身の「働き方改革」とも深くかかわっている。

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