デジタル化では時短できない

働き方改革

「パーキンソンの第一法則」が見事に適応する学校現場

 イギリスの歴史学者パーキンソンが提唱した法則の一番目がこれである。

第1法則
仕事の量は、完成のために与えられた時間をすべて満たすまで膨張する

 もともとはイギリス政府の官僚制を批判するために述べられたものらしいが、この法則の汎用性の高さによって、いたるところで活用されている。
 要するに、時間はあればあるだけ使う、ということだと考えていいだろう。

 これは学校現場でも、適用するところだらけではないだろうか。それも見事な適用である。

 運動会や学習発表会、あるいは卒業式などの練習は、時間があれば限度いっぱい使おうとする。
 研究授業があれば、指導案の修正をぎりぎりまでやろうとする。
 通信表の所見もぎりぎりまで見直そうとする。出した成績もこれでいいかと、何度も何度も見直している。
 言い出したらきりがないかもしれない。

 もしかしたら学校現場では、これが正しいと思っている人も多いのではないか。
 子どもたちにこんな指導をしていないだろうか。

 掃除は時間いっぱいがんばりましょう。
 テストは時間ぎりぎりまで見直しましょう。


 時間を限度まで使い切ることがいいことだと教えている。
(もちろん時と場合によってはいい時もある。)

 このパーキンソンの第一法則に沿って考えると、学校現場の業務をデジタル化しても多忙感は決してなくならない。

 先の通信表の話を例にあげよう。
 デジタルの校務支援システムの導入によって、学校の業務は劇的に改善されたと、私は思っている。
 思ってはいるのだが、仕事が楽になったかと言えば、そこに疑問符が付く。

 日頃の出欠状況を記入していけば、学期末には自動的に集約し、通信表や指導要録にまで集計が記載される。(これだけでも、かなりの時間短縮である。)
 所見は入力なので、ミスを心配する必要がなくなった。何度でも修正できるし、間違いを見つければ、プリントアウトし直せばいいだけである。
 その他多くの時短効果があった。

 しかし、多忙感は変わらない。なぜか、もうお分かりではないだろうか。
 デジタル化によって空いた時間に次々と別の仕事を入れ込んでいくからである。
 あるいは、処理の速さに安住して、仕事の終了をぎりぎりまで後ろに持っていくからである。

 システムが導入されたときは、みんな「便利になった!」と喜んでいるが、やがて慣れてくると、便利になった中での仕事の段取りを考える。
 これはデジタル化に限ったことではない。
 会議を減らしても、行事などを軽減しても、三学期制を二学期制に変更しても、同じ流れになる。

 前任校で、ある年から三学期制から二学期制に移行した。
 二学期制になれば、通信表は10月中旬と3月末の2回でいい。これは大きな業務軽減となる。
 移行した初年度、多くの職員は7月に所見を書いていた仕事のリズムが残っているものだから、3学期制の時と同じように7月から書き始めていた。
 遅れてスタートした職員でも夏休み中にほとんど書き終えていた。
 こうなると、10月の学期末の業務は極めて楽である。

 しかし、その次の年には、多くの教師が9月下旬、遅い場合は10月になって取りかかっていた。回数は減ったとはいえ、学期末の多忙状態は再び繰り返されることになる。
 これが、異動して再び三学期制の学校に行って、負担軽減であったことを思い出すのである。

 誤解を恐れずに、あえて断言しよう。

 今のままでの学校現場のシステムでは、子どもの数は減ろうとも、教科担任制になろうとも、いや、仮に授業時数が半分になったとしても、多忙感は変わらないだろう。

 システムが変更したときは、負担軽減を実感できる。しかし、そのうち次々と仕事のリズムがもとにもどり、やがて同じような勤務状況になる。

 ほかの組織でも同じような現象が起こるのかもしれないが、実はここに学校現場特有の仕事のあり方が深く影響しているのである。 
                     

リミッターなき勤務時間 へ続く

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