無責任な教育談義

働き方改革

 教育についてさまざまな人が意見を述べているのを見たことがある。文章も読んだことがある。
 政治家、マスコミ、研究者、評論家、保護者、芸能人、一般の人のコメント、などなど。

 それらを、聞いたり読んだりしての第一印象は、「思いこみで語っている」である。
 今の学校現場はそういう状況ではないのに、まるで昭和のドラマのような、ステレオタイプのコメントが非常に多い。

 理由がある。

 学校という場は、(大人であれば)ほとんどの人が経験のある場だ。
 病院に行ったことがない人はいるだろう。ほとんど行かない人も多い。警察のお世話になったことのない人や葬儀屋のお世話になったことのない人も多いだろう。

 社会の様々な職種に関わったことのない人は一定数いる。しかし、学校だけは大半の人が何らかの形で経験している。それもかなり長い時間に、である。

 だから、みんな教育について語る資格があると思っている。いや、語る資格はみんなあっていい。

 問題なのは、それが自分の思い出を基準に考えていることである。

 教育は、テレビドラマや小説、映画などの題材としても取り上げられやすい。実際にこれまでに数多くの作品がある。

 自分の思い出があり、それをオーバーラップするようなメディアの作品もある。思い出というものは、正当化され、時に曲解される。自分の中で嫌なことも楽しいことも増幅されたり、事実とは違う記憶がなされたりする。メディアの作品を見ながら、自分の記憶が多少なりとも書き換わっていると考えた方がいい。

 また、体験というのは、その人にとっては唯一無二のものであろうが、だからと言って、社会のすべてではない。
 「自分が子どもの頃にはそんなことはなかった。」という人は、自分と自分の周りの友だちだけの記憶で判断している。子どもの頃の学校のイメージは、本当に狭い範囲に限定されているのだ。学級の中のことですら、子どもの視野では全てを把握することはできない。
 自分は経験していなくても、その学校の中で大きな出来事は起こっていたのかもしれない。

 経験は大切だが、それが全てではない。

 これは教育政策を考える立場にある人ですらそうだと聞く。だから過去の経験から政策の立案がなされようとすることもあるという。また、全く反対に全くの理想論から入って、少しも現実味を帯びない話がなされることもあるという。
 今、教育について語るのであれば、少なくとも一定の現状把握は必要である。「昔の学校はこうだった」はいらない。ましてや「昔はこうだったから、今もそうだろう」という思い込みを根拠にしてもらっても迷惑千万である。

 誰もが経験している場所だから、反対にコンセンサスが取りにくいのが、教育問題なのだと、無責任発言を聞いて、いつも思う。

 例えば「我が国の教育は画一的だから、不登校児童が増えているのである。」というような一文ですら、突っ込みどころ満載である。

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