風通し

現代教育論

 個人的には、研究授業は好きだった。授業参観も好きだった。
 教師の中では多くの人ができれば避けたいと思っていたようだから、私は変わっていると思われていたようだ。

 人が教室に来るのが好きだったのである。
 家に友だちや親戚がやってくるような、あのちょっとしたドキドキの感覚が好きだった。

 人が来ると、子どもたちも張り切る。ちょっといつもとは違う空気が流れていることを子どもたちも感じ取るようで、背伸びをして頑張ろうとしている姿が好きだった。
 反対に言えば、日ごろの学級というのは他人が入りにくい、いわば風通しの悪い場所だと思う。

 持論がある。

人間は他者を受け付けない排他的な環境に置かれると内部の人間関係が煮詰まる。まさに水分が飛んで、味がものすごく濃くなった状態である。

 どれだけいい感情を抱いている関係であっても、ずっと固定された関係のまま他者とのつながりを断たれると、おかしくなってくる。

 いじめ、体罰、虐待、暴言、暴力、差別・・などなど、いずれも閉鎖された人間関係の中で起こりやすい。

 我が子をどれほどに愛していても、二人だけの関係を続けている母親が、つい虐待に走るのも同じ理由だと推察している。
 虐待を生む理由に、個人の資質もあるだろうが、置かれている人間関係によって誘発されるという側面もあるだろう。

 だから、学級が開放的であることは好ましいことが多いだろうと思ってきた。学級は基本の設計が閉鎖的なのである。意図的に開かれた状態にしていくくらいでちょうどバランスが取れてくる。
 誰もが自由に見に来るような学級であれば、いじめも起こりにくいだろう。
 (もちろん、これで全て解決するなどとは思っていないが。)

そういう開放感によって、煮詰まった人間関係を作らないという意味で、授業の参観は大歓迎である。

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