【知らない、という幻想】
もうずいぶん昔だから、こんな場に書いてもいいだろうと思う。
自分が教育実習に行った時の話である。地元の付属小学校に行った。ある時、同じ実習生が算数の授業を行った。6年生の「比例」である。
一方が変われば、伴ってもう一方が変わる規則性に気づかせるという場面で、その実習生が、「何か気づくことはありませんか。」と問い、子どもたちはあれこれと答えていた。
その時に、ある子どもが「こういう関係を比例と言います。」と発言した。結論を言っちゃったのである。
ここまではまあ、いいだろう。
すると、発言した子の前の子がクルリと振り向き・・・
「バカ、まだ早いったい。」(博多弁である。)
お分かりだろうか。さすがに付属の子どもである。実習生に気を遣って?知らないふりを演じつつ、授業を進めてくれていたのである。どこで何を言うべきか、子どもの方が理解している。
今でも現場では、自力解決の時間というものが算数の授業の中に存在するのだろうか。
「みとおし」なるものを出し合った後で、自分で解き方を考える時間である。
あの「自力解決」の時間は、この問題を「全ての子どもたちが、今初めて見た」という前提で進められている。そう思っていなければ、あんなに一律に丸投げしない。
しかし、実際には塾や通信教育などですでに知っている子どもたちが実際に存在する。フツーに存在する。
一方で、今日初めて教科書のその場面を見たかのような子どもたちも実際に存在する。こちらもごくフツーに存在する。
子どもたちどうしは長く一緒に生活しているのだから、誰が塾に行っているとか、そんなことはよく知っている。
だから、授業の中で「さあ、自分で考えてみましょう。」と言われても、その内容をすでに知っている友だちがいることも分かっている。
反対に、前に学習したことなどすっかり忘れてしまって、初めてと同じ状態で問題を見ている子どももいる。内容によっては、「みとおし」が去年学習したことの場合もある。覚えているわけもない。
スタートラインが同じではない、この状態にいるときの、子どもたちの心理状況を、どのように考えればいいのだろうか。
ちっぽけな優越感と絶望的な劣等感が混在するような、それでいて「みんな同じ位置からスタートしている」という夢物語が支配してる授業の空間に置かれた子どもたちの心の中を想像したことがあるだろうか。
私はこの一点だけでも、算数において自力解決の時間が大手を振っていることに強い疑問を感じる。
完全になくせ、とは言わない。どれだけ気を配っても(いい意味で)何でもよく知っている子どもだっているからだ。
しかし私は、公教育とは、子どもたちが家庭でどんな状況であろうとも、ともかく学校に来れば、友だちと仲良くできて、給食をおいしく食べて、そして勉強ができて、楽しく過ごせることが大切な目標だと思っている。
家の違い、環境の違いを忘れさせるために、学校には施設、設備、備品が用意され、等しく教育を受けさせる段取りを整えているのである。
それを教師が、すでに持てる者が、持たざる者にちっぽけな優越感を持つような授業をしていいのだろうか、と思っている。
すると、「交流によって、カバーするのだ」という意見も出てくる。
しかし、「交流」とはまさに互いに交わってこそ意味がある。時に教える立場が逆転することで互いのリスペクトが生まれるのだろうと思う。基本、交流とは対等な立場で使われる言葉である。
それが、いつも教える人が同じ、という状況は、知的な上下関係を固定してないか。水が高いところから低いところへ流れるように、情報の流れる道筋が一方向に偏っていないか。
子どもたちがそれを「塾や通信教育の結果なのだ」と思い込むことを強化させていないか。
「みんな知らないはず」という教師の「お花畑的」理想論が、子どもに現実の厳しさを突き付けるような状況になることに、もっと然るべき配慮があっていい。
子どもの貧困が問題だと言われる今、せめて知的状況に置いてそれを全力で阻止するのが、公教育における教師の仕事の一つだと思っている。