学級で仲良くなるために、全員で遊ぶ日を設ける学級は意外に多い。
結論から言えば、「みんなで遊ぶ日」は不要である。
「みんなで遊ぶ日」は集団への帰属意識を高めるためには役立つかもしれないが、個々の子どもたちが友だちとをネットワークを形成するには思ったよりも効果がない。
むしろ見えない弊害が広がる可能性もある。
全員で遊ぶにドッジボールを選択したとしよう。当然のことながら、子どもたちの中にはドッジボールが嫌いな子どもも、苦手な子どももいる。
そういう子どもたちは、どうしてやりたくもないドッジボールをしなければならないのか、と真剣に思っている。昼休みはそもそも自由に過ごしていい時間なのに、と思っている。
そもそもドッジボールという種目は、教師が思う以上に嫌っている子どもは多い。
(参照「ドッジボールという種目)
クラスで仲良くという正義を振りかざされて、仕方なく運動場に出てきたものの、逃げるばかりで、あたると痛いし、とても他の子どもたちと仲良くなれたとは思えない。
高学年になった子どもたちに聞いたことがある。
「全員で遊ぶ時間ってあったと思うけど、あれが嫌だった人?」
「ドッジボールが実は嫌いな人?」
いずれもかなりの人数が手を挙げる。
こうなると、そもそも意図していることは、結果と合致していないことはよくわかる。
昼休みのドッジボールが嫌いで、学校に行きたくなかったという子どももいるくらいである。
そもそも全員が仲良くなる必要はない。
仮に全員が仲良くなるという理想を掲げながら、一部の子どもしか活躍しないようなドッジボールを選択している。
(子どもにしてみれば他の遊びを知らないからだろうが、見ている教師の方が安易なのだ。)
ドッジボールの代わりの遊びを見つけようとも、全員が仲良くなるような遊びを見つけることは、かなり難しい。
これまで述べてきた「学級ネットワーク論」からすれば、何のメリットもない。
大人も職場の絆づくりだと言われて、行きたくもない飲み会に強制的に参加させられた上に、歌が苦手なのに必ず一曲歌えと言われたら、同僚と仲良くなるなどという気は起らない。
全員で遊ぶ日を設定するにはいくつも条件をクリアする必要がある。
その1
まず、全員で遊んだから仲良くなれるという意味を子どもたちに理解してもらわなければならない。
その2
そのために、それにふさわしい遊びを決めなければならない。少なくともドッジボールはその候補には上がらない。けいどろも然りである。
その3
実際にその遊びの中に全員が楽しめるルールや仕掛けが内在していなければならない。
その4
結果として、全員が楽しんで終わらなければならない。
おまけ
楽しいだけでなく、仲良くなる要素が含まれていなければならない。
果たしてそんな遊びが存在するだろうか。(笑)
係活動でも、遊びを企画する子どもたちが「全員来てください」と声をかけることがある。
私は反対する。
「全員行く必要はありません。係が全員来てほしいのなら、ルールを工夫したり分かりやすい宣伝をして、みんなが来たくなるような企画にしてください。」
そうなのだ。参加者の問題ではなく、企画者の問題である。現代社会で言えばそれが民主的である。全員遊ぶ日を決めることは全体主義だというのは言い過ぎか。
私がそのような指示をするものだから、学級の子どもたちは、さまざまな企画を考えて友だちを誘うことになる。それでも全員が集まることはない。
時には、同じ日の昼休みに違う係が、同時に違う企画を打ち出すこともある。
みんなは好きな方に行けばいいし、もちろん行かなくてもいい。
それでいいのである。
「全員が一堂に会する」というそのものは、集団への帰属意識の高揚には役立つかもしれない。自分もこの集団の所属しているのだ、という感覚である。
しかし、具体的に誰かと仲良くなるというような結果は得にくい。
すなわち、個々の子どもたちにしてみれば、友だちとのネットワーク形成のためにはあまり効果がないのである。
だから集団で遊ぶ時に、その輪の中に入れなかったと思い込んでしまった子どもたちは、むしろ遊ぶ日がつらい状況になる。
みんなが楽しそうなのに、自分はそこに入ることができていないと感じる。
ネットワーク理論の視点から言えば、学級みんなで遊ぶ時間を確保する時間よりも、隣同士やグループでの接触回数が多い活動を取り入れていく方が、子どもたちの人間関係の形成には、はるかに効果が高い。
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