制度疲労を起こす地元研究会

働き方改革

 小学校には地元に教科ごとの研究会があることが多い。

 小学校教師は、全学年の全教科を教えることが前提となっている。
 しかし、これを本気でやろうと思っても、実際は無理である。(参照「無限に続く教材研究」)
 だから、心ある教師はせめて一つの教科だけでも深く学ぼうという気持ちから、どこかの研究会に属することがある。

 古くからある研究会は地元にしっかりと根を下ろし、その地域の学校の授業のあり方のモデルになっている場合もある。
 それは、管理職にも指導主事にも、その研究会出身者がいて、研究授業の講師を選ぼうと思えば「国語ならこの先生、算数ならあの先生」と暗黙の了解ができているせいもある。
 さらには、教育センターのような場所での研修でも、教科研修ならばその研究会の人が講師をすることが多くなる。
 つまり、どこに行ってもその地元である限り、その研究会の影響を受けないわけにはいかないシステムができあがっている。

 教師は残念ながら、あまり本を読まない。身銭を切って出かけることも珍しい。
 (怠けているのではなく、労働の構造上、そういう位置に置かれていると考えている。)
 だから地元の研究会に参加しているだけで、ものすごく勉強している人と思われる。5年も10年もいたら、もうその道の大家のように思われることもある。

 反対に、その教科についてあまり知らない多くの教師はは、比較的よく知っている人に頼らざるを得ない。何もないところから考えるよりは、聞いた方がいくらかでもプラスになりそうだからだ。

 こうした構造によって、ある地域のある教科の研究は、一つの方法に固定化される傾向になる。
 だから、他の方法を試みようとすると、異端視されるのが一般的である。

 「国語の授業は、ふつうはこうやって進めるんだけどね。」という「ふつう」という言葉で批判される。すぐ隣の県では、誰も知らない方法なのに、である。

 素朴に疑問に思う。「それって誰が普通だと決めたんですか。」
 文部科学省は、現場の指導法に言及しない。学習指導要領にも〇〇方式で教えなさいという文言はない。それが基本的なスタンスである。
 内容は緩やかに統一をするし、検定教科書を使ってもらうけど、どう扱うかは現場の自由だよという考えである。
 では、どこで「ふつう」の指導法が生まれたのだろうか。

 どの研究会も誕生当時は、子どもたちのためを思って指導法を開発したのだろうと推察する。私よりもはるかに大先輩のみなさんが知恵を絞って道を拓いてきた。

 やがて、組織も拡大し人も増える。
 研究会には存在理由(アイデンティティ)が必要となる。それが指導法の固定につながったアイデンティティとなる。
 〇〇研究会と言えば、あの指導法だよね、いうように研究会のラベルが指導法と一体化していく。
 それが今に至っているのである。

 こうなると、もう誰にも止められない。
 仮にその研究会の会長になっても、自分の先輩が築き上げ、自分もそこで学んできたものだから、やり方を変えましょうとは言わない、言えない。

 教科研究においては、その地元において「独占企業」状態なので、他人は誰も干渉しない。自分が属さない研究会の批判をわざわざやる人もいない。

 全国には同じ教科でありながら、さまざまな指導法があり、それを裏付ける研究もある。本も出されているし、今ならネットでも公開されている。
 しかし、もはやそのようなものから学ぶ必要もない。何人も今の領分を侵すことはできないからである。先輩教師から受け継いだものを大事に守っていけばいい。

 残念ながら、その研究会に属して、少しばかり知識を得ただけで専門家だと思ってしまっている教師はかなりいる。
 (そうでない人ももちろんいるが。)
 研究会での公開授業などもそれほどできるわけではないので、生涯のうちで数回も授業すればやった方になる。それでも専門家のように扱われる。

 若い人がこの地元の研究会に入らなくなっている。
 これは、初任者研修の見事な成果だと思っている。(皮肉である。)
 現場で仕事をこなすだけで精いっぱいになるシステムだからだ。この結果、研究会に入ろうというだけで若者は大切にされるし、評価もされる。自分自身の評価も実際以上に高くなってしまう。

 こうした中で今、少しずつひずみが出てくる。

 一つの指導法が一つの研究会のアイデンティティとなるので、基本的な授業の流れは何十年も変わらない。変えない。
 しかし、研究会の内部では、新しい研究テーマは毎年出さないといけない。組織体としての活動目標がないと瓦解するからだ。

 基本的な土台を変えないままで違うことをしようとすると、どうしても枝葉末節なことを少しずつ変えていくようなことにしかならない。
 結局十年経ったら、ぐるっと回って同じことをしていたという笑えない話になる。

 社会は大きく変化しているのに、である。

 あるいはトレンドの言葉をくっつけるだけの研究になる危険もある。今なら、「主体的・対話的で深い学び」あるいは「ICT活用」、まずトレンドありき、教科の特性も考えないままにトレンドと組み合わせる。
 しかし、そういう方針だと、授業者のところに降りてくるときには、よく分からない状態になっていることがしばしばある。

 さらには、職員室でも不思議な光景に出くわすことがある。
 「〇〇研究会の先生からもらった」という学習プリントが、学年の打ち合わせの中に登場する。
 それを使って、今度の単元を進めようという話の流れだ。
 しかし、よく見るとそのプリント自体が、すでに10年以上前のものだったりする。今、その研究会でも取り組んでいるかどうかも分からない。
 プリントだけが生き残っている。
 しかも、提案するのが学年主任だったりすると、同学年の若手がそれに従うような構造になっていく。学年でそろえることは必ずしも悪いことではないのだろうが、少なくとも新しい学び方を取り入れようという流れではない。
 その研究会が望んでいるかどうかに関わらず、こうした形で古きものが現場に残っているという現象はあちこちに生まれてきている。

 戦後教育の文化として生まれた、このような研究組織が場合によっては未来への道を結果的に阻んでいる可能性も出てきている。
 新しいことをやっているつもりで、そもそもアイデンティティが古いままなら、何をやっても基本的に変わらない。

 こうやって、時代の変化とともに組織ごと盛衰していくのが世の習いである。企業もまた然り。

 制度疲労という言葉は、実は学校教育のあちこちに静かに広まっている。

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