そろえたがる学校

初等教育論

そろえたがる学校

 同じ位置に、同じ目標を掲示する。同じ掲示物を同じ時期に、同じ配置で掲示する。
 授業でも、同じ位置に同じチョークの色でめあてを書き、同じ板書の流れで、同じまとめになるように授業を進める・・・・

 全体の足並みをそろえようとする学校現場が増えてきている。
 (地元だけであってほしいと思っているが。)

 研究授業をするときにも、学年も領域も単元の内容も違うのに、同じ授業の流れで、同じような指導案の形式で進められる。

 理由の一つに、形式を整えておくと次の年に子どもたちが戸惑わなくていいから、という。

 学校教育の中には膨大な活動がある。給食当番の決め方や配膳の仕方だって、学級によって違う。その中で算数の授業の進め方だけをそろえることに何の意味があるのか今もって分からない。

 これは、教師の方が考えるのが面倒なのか、異質を許さない一部の教師のわがままかのいずれである。

 そろえないと困るほどに子どもたちの頭は固くない。毎年、さまざまな学級担任と出会い、新しい友だちとも出会う。始めのうちは緊張もするが、やがてその中でルールや仕組みを理解していく。

 その多様性こそが、社会としての学校の在り方である。

 子どもが戸惑うのがだめだというなら、卒業まで学級編成をせず、同じ担任が異動年限まで担任をし続ければいい。ずっと同じ方法で授業をしてくれるだろう。
 それがおかしいことは、考えればすぐに分かる。一人の教師に習うより、いろんな教師に出会う方が子どもにとってもいいことなのだ。
 同じようにいろいろな方法を経験することだって、子どもの学びになる。
 そもそも家庭環境が違うのだから。

 このように理由が理由になっていないような事例が、学校には山のように存在する。
 結果として合わせることに時間を費やしているために時間を圧迫することもある。

 古くは「護送船団方式」と呼ばれた、画一性の高いシステムが今なお学校で息づいている。

 もう一つの理由に、保護者からのクレームに対する防御がある。
 何かクレームが来たら、「学校全体で決めていることですので」と言えばいいという論法である。
 クレーム回避を理由に特色も出さず、平凡で無難にやり過ごそうとする学校の風土は、特に最近よく見られる。むしろそれが当然という雰囲気さえ感じられる。

 しかし、「全体で決めたこと」という理由が本当にクレーム回避になっているのかと言えば、疑問である。場合によっては逆に炎上する理由である。

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