授業に触れたがらない

働き方改革

授業に触れたがらない

 個人的な感覚で終わればいいのだが、あえて書いておこうと思う。
 現場の教師は互いの授業のことに触れたがらない。

 例えば、学力向上が話題になったとする。
 これまでも述べてきたように、授業によって45分の中で改善しようというのではなく、宿題にしたり、帯タイムのような特設時間を設定したり、〇つけ先生をどうにかできないかというような、周辺のことで問題を解決しようとする。
 (参照「オプションに頼らない」)

 文科省の学力調査で点数を上げる対策を考えるときでも、過去問をやるための時間を取ろうというような話にはなるが、国語の授業そのものをどうにかならないかという話にはならない。

 宿題賛成派の教師から、授業の中でどうにかしたいという話も聞かない。
 漢字や計算をプリントによる宿題でどうにかしようとする。だから、そのプリントを誰がどうやって印刷し、どうやって答え合わせをして管理するかというようなことにばかり話が行く。

 個人的には(雑談も含めて)「授業の中だけでなんとかなる」という話を何度もしてきたのだが、話半分しか聞いていない。どうやっているのかというようなことを突っ込んで聞き返されたこともほとんどない。

 ずっと前に地元の教育委員会助成事業で、お金を出すから〇つけ先生を雇えるという取り組みがあり、その報告会に参加した。

 とある中学校の発表によると、〇つけ先生に地元の有名大学の学生さんが来てくれたおかげで子どもたちが意欲的に取り組んだと報告があった。
 「それって、教師がだめだから、大学のブランドで引き付けたってわけ?」と思って質問しようと思ったら、質問の時間はなかった。

 また教委主催の学力向上研修会で毎年行われれていた実践発表会に何度か参加したことがある。
 当時、学校で授業の進め方を学校で統一するための「〇〇小学校スタンダード」なる冊子を作ることがあちこちで進められていた。その報告会でも「〇〇スタンダード」の紹介があったのだが、一番聞きたかった「それで学力は向上したのか」という結果の報告はなかった。
 冊子を作ったことの報告だった。
 これは一見授業について触れているように見えるが、意見として授業のあり方を整理しているにすぎず、授業そのものについて検討がなされたようには見えなかった。

 余談であるが、授業の進め方を一部の人間で考えて、それを全員が同じようにやるという取り組みはとても危険であると思っている。
 どこかの何かのエビデンスに裏付けられ、実績が立証されている授業方法であるなら、まだやってみようということも分からないこともない。しかし、何人かの合議で決められる授業スタイルなど、思惑の調整だけで一貫性もなく破綻することは目に見えている。
 例えば、学校の中で漢字のテストの大会をやってみて、最も平均点の高い学級と同じ方法を全校で取り組む、というのならまだわかる。しかし、そんなことは絶対にやらないだろう。

 形式的に足並みをそろえることは、よくなされる(参照「そろえることの愚かさ」「そろえたがる学校」)のだが、優れたものに学ぼうという発想にはならない。

 そもそも、優れたエビデンスのある授業モデルが存在するのであれば、もはや学力向上の話は不要である。

 「めあてを書く」一つとっても、多くの議論が必要だろうし、多くの検証もまた必要である。校内研究の授業でも、授業の進め方をそろえようという意見を述べる人がいるが、かなり暴論だと思っている。(校内での提案ではできる限り反対してきた。)
 そろえる話をするときに、なぜその型にそろえるのかという検証のないままに話が進む。
 授業の話をしているようで、実際の授業そのものには何も踏み込んでいないという、壮大な矛盾が見える。

 いずれにしても授業によって、学校の諸問題を解決しようという議論にはなりにくく、いざ授業の話をしようとすれば、足並みをそろえることばかりで生産性の低い議論ばかりである。

 「うちのクラスは子どもたちの学力が伸びない。」と職員室で愚痴を言う教師がいて、よくよく話を聞いたら、毎日山のような漢字練習帳の宿題を出しているのだが、漢字テストの点数が悪いということらしい。
 そういう教師に「別の方法がありますよ。」というやり取りがなされることは、ほとんどない。

 配慮の要する子どもへの対応についても同じ場面を見ることがある。
 明らかに対応が間違っているせいで、子どもが興奮し荒れているのだけれど、教師の対応の悪さを横に置いたままで「支援学級に措置変更するかどうか」「支援員の補助を付けてほしい」という話題になることがしばしばある。

 よくよく考えると、教師は他の教師の授業を見ることがあまりない。
 せいぜい校内の研究授業か、よその学校の公開発表会くらいではないか。年に数回あればいい方かもしれない。

 中学校の教師は、教科が違えば、互いに何をしているかも知らないようなのだが、どこでもそうなのだろうか。
 以前に同じ校区の小中ブロック交流会があり、その中で学力向上の部会に参加した。
 その中では、小学校は1年担任から6年担任まで共通理解ができ「〇〇小学校職員」として参加しているのだが、同席の中学校は教える教科でなんだか違う雰囲気だった。
 「中学校はこんな時どうしているんですか。」と尋ねたら、「数学ではこうしているけど・・・」みたいな返事しか返ってこない。
 小学校は子ども6年分の学習について共通理解を図ろうとしているのに、中学校では同じ子どもに教える教師たちが互いに何をしているのか知らないことがある意味新鮮だった。これでいいのかと。
 小学校は、必要以上にそろえすぎるところが問題になるともあるが。

 見ることが少なければ、当然「どんな授業がいい授業なのか」というような議論にもなりにくい。年間に1000時間近くも授業しながら、同僚の授業もあんまり知らないという状況は、実は学校という職場ではよくないことのようである。 

 授業についてもう少し自由な議論と自主的な改善の取り組みがなされる風土であれば、もう少し現場は改善するのではないかと思っている。

 本業率を上げるということ(参照「本業に集中する率を高めよ」)でも述べたが、学校の諸問題の多くの部分は授業によって改善すると確信している。

 また、今の学校システムは、授業のウエイトが次第に軽視されており、それが学校の問題解決を一層遠いものにしている。
 学校がその生命線であるはずの授業を軽視していく仕組みは、少し複雑なので論じ直す。(続く)

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