信頼という名の脆弱な基盤

働き方改革

信頼という名の脆弱な基盤

 教師の仕事は、当たり前だが教育することである。
 この教育という営みには、明確な指標がない。およそ漠然とは分かるのだが、具体化するとか、ましてや数値化するなどは無理な相談である。
 今すぐ効果があることが正しいとも限らない。
 同じように話したからと言って、全ての子どもに同じ話が通用するわけでもない。

 その仕事の大半は授業である。(これも当たり前だが)
 授業は各教室で行われている。教師の仕事は組織として取り組みながら、最前線では個人事業のような形になっている。
 管理職は時折見に行くだろうが、多くの時間は「一人の大人と大勢の子ども」の中で過ごすことになっている。

 読者諸氏も分かっているとは思うので、あえて書くが、教師も教室と職員室では顔が違う。職員室での大人同士のコミュニケーションと、子どもとのそれが完全に一致するわけではない。
 職員室での話し合いや事務作業が、授業のうまさや子どもへの対応を反映するわけでもない。(全く関係ないこともないが、一致すると思わない方がいい。)

 教師個人の本音を知っているのは、案外子どもかもしれない。長い時間接していると教師も、仮面が外れて素の部分が出てくるだろう。子どもの方が、その素の部分を見ることができるだろう。
(これも絶対とは言えない。)

 何が言いたいかと言えば、教師の仕事への評価は自分たちが思っている以上脆弱な基盤の上に成り立っているということである。

 これは、そのまま対保護者にも言える。
 保護者は同僚以上に、日ごろの教師の仕事が見えない。
 しかし、子どもたちから話だけはよく聞く。これは同僚よりも聞く情報は多いかもしれない。

 保護者の教師に対する評価基準は、まずは子どもの話ということになる。
 これに、例えばノートやテストなどの学習の成果、学級通信などの教師のメッセージ、他の保護者の評判なども加わる。
 異動してきたばかりでも、その学校の保護者から情報が流れてくることもあるくらいなので、教師もそれなりに心しておいた方がいい。
 さらには、懇談会での教師の話や、相談したときの教師の対応なども評価になっているかもしれない。

 それでも、教師が保護者に直接授業をするわけではないので、どれだけ手を尽くしても間接的な情報がほとんどということになる。

 保護者にしてみれば、「信頼」するしかない。
 あれこれ気に病んでも仕方がないので、子どもの声を聞きつつも、任せるしかないということになる。これは、教育という仕事の性格上、どうしようもない。

 教師からしてみれば、これは実に不安定な状況である。
 同じことをやっても、支持してくれる保護者もいれば、反対の保護者もいるだろう。
 今までと同じことをやっても、突然クレーマーとして登場するかもしれない。

 教師も人間であるから(謙虚になればなるほど)自分の仕事が完全だとは思っていない。思っていないから、クレームへの不安はずっと拭い去れない。

 たとえは悪いが、研究授業の協議会を想定してほしい。
 どんな授業をしても、揚げ足を取ろうと思えばいくらでもやれるではないか。
 今ある現状を無視して、足りないことや不完全なことを言い続ければ、どんな授業だって悪い授業に見える。悪意があれば、いくらでも可能である。(いや、やらないとは思うが、仮定の話である。)

 同じことが対保護者にも言える。
 何をやっても揚げ足を取られる可能性がある中で、仕事を続けることは実はそれなりにストレスフルなのである。

 長年積み重ねてきた信頼も、一つのことであっという間に消し飛ぶことは多々ある。
 そうなると、全く同じことをやっていても、評価が逆転する可能性もある。
 「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とはまさにこういう状態である。

 こうなった原因はさまざまにあるだろうが、すぐに解決する手立ては今のところ見つかっていない。

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