些末なことと言われるかもしれないが

現代教育論

【些末なことと言われるかもしれないが】

 地方行政における「教育委員会」と「教育委員会事務局」は厳密には違う。
 多くの場合「教育委員会事務局」のことを「教育委員会」と呼んでいる。
 学校現場にさまざまな文書が降りてくる、そのほとんどは「教育委員会事務局」からである。

 だとすれば・・・
 教育委員会=教育委員会事務局 という構図は正解なのか。

 試しに、今全国で「教育委員会」と呼んでいるものを純粋な教育委員会のものと事務局のものを厳密に峻別し、事務局から発せられるものを「教育委員会事務局発」と言ったとしたら、印象が変わるのではないか。
 よく「保護者が教育委員会に訴える」というような話もあるが、これもまた「教育委員会事務局に」と表現すると印象が変わる。
 事務局と言われると、何やら具体的な〇〇課を想像し、事務手続きをしてくれる場所のように思う。市役所や区役所がそうだろう。

 一言で教育委員会というくくりで話を片付けてしまうが、現場に降りてくるさまざまな指示や調査、それに伴う文書は、「教育委員会」から発せられるのではなく、「教育委員会事務局」の各担当から発せられる。

 学校からの連絡や報告の大半も「教育委員会」に行うのではなく、事務局の、それも担当課に充てて行われる。
 何が言いたいかって?

 組織構造のあいまいさは、指揮系統のあいまいさを生む。

 教育委員会が地元の学校教育へ関与することは当然であろうが、要はその関わり方である。教育委員会(事務局)は、学校教育の内容にどこまで踏み込めるのか。

 教育課程の編成の主体は、学校にあると指導要領に示されている。もちろん、関連法規を前提としたうえで、だ。
 しかし、そこには一定のすみわけがなされているはず。でなければ指導要領に、「教育課程の編成は所管の教育委員会にある」と明記するはずである。

 現代社会においては、縦構造の組織であっても、全てが上部組織が決定するわけではない。
 上部組織の権限と、下部組織の権限はそれなりに分けられている。全てを上部組織が決めてしまえば、むしろ非効率になることは歴史を紐解くまでもない自明の理である。

 例えば、通信表の発行は、学校長(つまり学校現場)の裁量の範疇にある。出そうが出すまいが、決めるのは学校長である。
 これに関して文科省は口を出さない。
 文科省がいう評価とは、指導要録の評価であり、それを現場が(勝手に)通信表に転用しているだけである。しかし、そんなことも知らない人が結構いる。

 過去、教委レベルである特定の教科の指導法を、一つのものに限定するようなことがあったに聞く。(地元ではないし、あくまでも噂なのだが)
 それは教育委員会の権限の範囲なのか。
 文科省の示す指導要領にすら明確な指導法への言及はない。そこに踏み込まず、現場への裁量に任せてもらえることに、私は国家へのリスペクトを感じている。
 我が国の教師が、これまで研究授業や自主的な研究団体によって切磋琢磨できたのは、国家が指導法に踏み込まなかったという結果でもあると思っている。
(教育内容については諸々意見はあるだろうが。)

 しかし、多くの現場の教師は「あれ?」と疑問に思う。
 なぜならどこかしらで「〇〇の教科は、このように指導するのだ」という何かしらの制約が発生しているからである。
 それが教育委員会事務局かどうかは、分からない。

 全国をくまなく調べたわけでもないし、制約の度合いもそれぞれ違うだろうから、何とも言えない。 今、学校現場の働き方改革が話題になることが多い。

 その改革の一つの方向に「権限のあり方」は話題にすべきではないだろうか。
 もやっとした権限の所在は、無駄な事務を増やしている。
 学校現場に限ったことではないが。

 念のために付記しておくが、私は教育委員会事務局が、学校を支配しようとしているというような陰謀論めいたことを言っているわけではない。
 むしろ、学校の方が(自分で決めるべきことを)教育委員会事務局に判断を仰いでいることが、実は多々ある。
 その結果、事務局の方を多忙化させているかもしれないとすら思う。

 推測するに、教育委員会事務局の方々もかなりの激務の中にいると思う。学校で教頭職が激務に耐えているように、教育委員会事務局の方々の多くの献身的な取り組みによって、現場が守られていることも多少は理解しているつもりである。

 問題にしたいのは、権限のありようである。
 実は、ブラックボックスではないか、と思っている。

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