二分の一成人式を改めて問う3

現代教育論

2分の1成人式を改めて問う3

 保護者への感謝の手紙の公開がなくなれば、後は何が残るだろう。

 残す企画は、将来の夢である。将来どんな大人になりたいか、という目標を描かせる活動が残っている。正直に言えば、自分も担任時代に6年生にもさせたことはある。

 ただ、この活動ですら、今の時代に合わないのではないかと思っている。

 理由は大きく二つある。

 一つが、どうしてもこうした活動では「どんな職業に就きたいか」という話になってしまう。
 「将来の夢=就きたい職業」という構造である。

 現代では、職業に関する具体的なプランが描きにくい。それだけ時代の変化が激しすぎるからである。ほんの少し前までユーチューバーが高い位置にあった。それを見た大人の中には苦々しい思いをした人も一定数いたのではないか。

 大人から見れば安易に見えるからである。そのユーチューバーですら今や陥落しそうな感じである。もはや安定した収入を得るほどの動画を作るには手間暇がかかりすぎるようになってしまったせいである。
 子どもたちの意識の変化は、大人よりもはるかに速い。敏感でもある。

 次の5年後ですら、どんな職業が出てくるのか分からない。また、今ある職業が果たして残っているのどうかを大人の方が心配している。

 「立身出世」という価値観が残っていたころであれば、何となくステータスの高い職業が漠然と存在していて、それに向かうことが「いいこと」のように思われてきた。

 今や、そんな時代ではない。

 教師自身が問うてみるといい。子どもたちが何を書けば、いいだろうか。子どもには強制しなくても、そこに教師自身の理想の解はあるだろうか。あるいは、子どもたちがどんな職業を書くか予想できるだろうか。一昔前と同じものを頭の中に描いていないだろうか。

 また人生100年時代を考えると、一つの仕事を全うするかどうかも不明である。自分の人生のステージに合わせて何度も仕事を代えていく可能性の方がはるかに高い。

 そうした感覚は子どもたちの方がむしろ漠然と分かっているかもしれない。

 理由の二つ目が、職業を書かなければ、性格や人柄などに言及せざるを得なくなるのである。「将来、人を助ける仕事がしたいです。」というような当たり障りのない、だれもが納得せざるを得ないような言葉を選びがちになる。

 書かされる子どもにしてみれば、ここに本音は書けない。本音が何かも分かっていない子どもも多いだろう。

 最近の子どもたちに「尊敬する人はだれか。」と尋ねたら、自分の親と答える子どもの割合が増えてきているらしい。
 十年以上も前から少しずつ傾向はあったが、今やその割合はかなり高いらしい。

 子どもの尊敬する人の筆頭に「自分の親」と書くことを読者諸氏はどう思うだろうか。
 出始めの頃は、そういう考えも中にはあってもいいだろうと思っていた。その子どもなりの思い出や歴史がそう言わしめる何かがあったのだろう。

 ところが、その答えがかなりの割合を占めるとなれば状況は変わる。
 私はこれを、一種の「返答拒否」だと判断している。「自分の親」と書けば、誰もが文句の言いようがない。その上、批判される危険度もかなり減る。

 「プロ野球選手」と書いていれば(以前は多かったのだ)、「実力もないくせに」と批判される可能もある。

 同じことが将来の夢についても言えるのではないだろうか。
 これだけの不確実な社会において、自分の夢を語ることは勇気のいることなのである。 

 今現在の著名人の中に、小さい頃の夢をかなえたという人もいるだろう。夢がその子どもをずっと支えてきたという話もあるだろう。
 だから夢が大切だという人もいるだろう。
 しかし、本当に子どもの頃の夢をかなえる人はごくまれである。反対に、ずっと幼いころの夢に子どもを縛ることもあってはならない。(本人が望むならともかく)

 そして、これも人の前で宣言する必要もない。

 そこで問題になるのが、「キャリア教育」である。
 今、キャリア教育を学校教育を通してするようなシステムになっている。

 子どもたちは、自分の将来の夢や、それに向けた準備を、小さな時期から考え記録し、場合によっては行動するように促される。果たして、それはいいことなのか。

 大人はどうだろう。
 読者諸氏は、10年後の自分を想像できるだろうか。プランを描いているだろうか。今、教師をやっている人は退職まで絶対に教師を続けるだろうか。

 あるいは、夢を持っているとしてもそれを書き、人に見せるほどに具体化しているだろうか。きっと大人の方がはるかにダメであろう。

 将来の夢を持つことは素晴らしい。
 未来を描き、それに向かって自分の行動を変えることができるのは人間という生き物だけである。

 しかし、感謝の手紙同様、記録させられ、公開させられることの必要性がどれほどにあるかを考えれば、疑問符だらけである。

 そう順々に考えていくと、二分の一成人式とはもはや何のために必要なのか、全く分からない。

 そもそも本家の成人式そのものも形骸化していないか。

 派手な衣装を身にまとい、マナーやルールに反する人がいるというだけでなく、そうでなく静かに過ごしている人も、行政が集めた場所で、何らかの話を聞かされるだけで、あとは体のいい同窓会の場所にしかなりえていないのではないか。

 批判を覚悟で言えば、やめてもいいのではないかと思っている。(ちなみに自分の時は行かなかった・・ある理由で。)

 なくても全く困らない。

 

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