研究授業10 過度な掲示は誘導となる

学校システム

 研究授業の無駄な準備

 人様に授業を見てもらおうと思うと、どうしても今までとは違う感覚が働いてしまう。いい授業を見てもらいたいという気持ちは、誰にでも当然起こる気持ちである。それは悪いことではない。

 問題は、その「いい授業」の中身である。それによっては、準備のあり方が大きく変わってくる。

 ある時には、本時の授業のために、教室全体が掲示物で埋め尽くされているのを見たことがある。
 黒板の周りの壁も貼ってあり、両側の窓にも風通しや日当たりが悪くなるのではないかという掲示物があった。
 国語の授業だったが、なんと教材となる物語が全て拡大コピーがなされて貼ってあった。
 残念ながら、今もって意味が分からない。

 意味がない一つ目の理由は、コスパの問題を大きく無視していることだ。
 毎日、5時間から6時間もの授業が行っている。
 そのすべての授業について、教室一面の掲示物を作成することは無理である。
 一つの教科で埋め尽くしているのだから、他教科の掲示物を貼る場所は当然のごとくない。
 その都度貼りかえる時間もない。
 その掲示物を作成するに見合う成果が見当たらない。

 そもそも教科書が、一人一人の子どもたちの手元にあるのに、教材文を掲示する必要は全くない。

 これは研究授業のためだけに行っているのだ、ということが見に来た教師にも分かる。
 (それ以外に、考えようがない。)
 だから研究授業を避ける教師が一定数出てくるのだ。日頃やらないことを、お祭りのようにすることに疑問を感じている教師はたくさんいる。

 二つ目に、子どもの認識の問題である。
 算数をやっているときも、図工をやっているときも、この国語の掲示物がずっと黒板の横に掲示してあることになる。
 黒板に前の授業のあとを残したまま、次の授業をすることはほとんどないだろう。掲示物だけが常に同じものが存在することも同じである。
 まるで意図的に集中を妨げているかのようにすら思ってしまう。
 最近は、特別支援教育的な視点から、視覚情報をあえて減らしていくことにかなり理解が深まってきたので、すっきりしている教室が増えてきたようにも感じているが、今でもにぎやかな掲示をする研究授業は多い。

 板書をスムーズに行うために、子どもの意見を予想して短冊状の紙に予め書いておくという授業も見たことがある。これはかなりの頻度でお目見えする。

 「準備していない意見が子どもから出てきたらどうするんだろう」という素朴な疑問が出てくる。
 その通りである。短冊がない場合は、教師が板書する。
 子どもにしてみれば、「僕の意見はいらない意見だったのね」と思うだろう。

 授業の最後に黒板を眺めると、一見美しく完成された板書のように見えるが、教師の予定通りに消化された授業だと、子どもにも分かる授業に陥る。
 察しのいい子どもは、自分の考えを言わずに「教師が望んでいること」発言しようとする。
 これではもはや、何のための研究授業なのか分からない。
 念のために付け加えると、教師だって「校長の思惑通りの発言を意図された職員会」に参加したいと思うだろうか。同じである。

 過度な掲示物は、教師の誘導の意図を子どもに見透かされる。

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