研究授業22 何を見るか

学校システム

 研究授業 何をみるか

 研究授業の何を見るかという課題ほど、教師の技量を端的に表すものはないのではないかと個人的には思っている。
 かく言う私も、若いころは全く分からなかった。どの授業を見ても、教師と子どものやり取りの連続にしか見えなかった。
 どんな発問や指示が優れているものであり、どんな子どもたちの反応があればいいのかというような「基準」がなかったのである。

 もったいないなと思うのは、授業中に指導案を見ている人である。
 そこにどれだけの言葉が散りばめられていようが、「現実」はすでに目の前で動いているのである。
 現実が全てであり、「案」として書いた言葉は「案」に過ぎない。
 「教師の意図を読み取りたい。」という人もいるが、それも言葉から読み取るのではなく、現実から読み取るべきであろう。

 よく「5分見れば授業の良しあしは分かる」という話がある。それに対して、「5分で分かるわけがないだろう。」という反論もある。
 実感として言えば、5分で分かることと、分からないことがある。
 そして、多くの場合は5分で分かる範囲のことで、授業のおよそをつかむことができる。

 5分あれば、教師の立ち居振る舞いや言葉が見える。
 教師の立つ位置、しぐさ、目線、動きの速さ、言葉の削り方、発声、リズム、テンポなどは5分も見ればおよそ分かる。
 教師の立ち居振る舞いや言葉が、研究授業の最中に大きく変わることなどないだろうから、切り取った5分を見ればおよその推定ができる。

 子どもたちの反応もほぼ同じである。
 教師の言葉に対して、どのくらいの子どもたちが耳を傾けているか、作業の指示に対して的確に動いているか、声はよく出ているか、手は挙がっているか、ノートに書くときの速さやていねいさはどうか、などは5分の中でおよそ見ることができる。

 こうしたことが優れている学級では、そもそも5分の進み具合が違う。同じ5分の使い方が、学級によって異なるのである。密度が違うと言ってもいい。
 切り取った5分だけが特別である可能性は低いとすれば、テンポのいい5分は、残りの40分も同じように流れていくだろう。

 10分見れば、授業のパーツが見える。
 一つの発問や指示で組み立てられる授業の部品である。子どもたちの活動への取り組み状況、学級全体の達成度、その内容、書いている量、話し合っている中身等が見えてくる。

 45分だと、そのパーツ単位の組み合わせ方、つまり授業の構成が見える。
 パーツの順番が不適切であるために、入れ替えた方がいい場合もある。そもそもあるパーツはまるごと無駄だからごっそりと削ってもいい場合もある。どこかのパーツを圧縮して別のパーツに時間をかけていい場合もある。そうした視点で見るときには45分が必要となるだろう。
 ただし、「パーツの組み合わせ」は授業の前に、指導案を見ればおよその検討がつく場合が多い。

 5分見て分かるようなことを、教師として技量を高めていくだけでも、一年間の成果は全く違ってくるだろうというのが正直な実感である。
 逆に言えば、そこを極めるのにも、それなりのトレーニングが必要である。

学校システム論index へ(ここに研究授業シリーズがあります。)

タイトルとURLをコピーしました