教師の疲労「感」の原因

働き方改革

 自分が教務になってから初めて分かったことがある。
 仕事の量そのものは教務の方が圧倒的に多かった。特に、年度の初めは、担任の5倍か、10倍かと思うくらいの仕事の量である。

 それでも、精神的な負担はそれほど感じなかった。量が多いだけだから、それをこつこつとこなしてば何とかなるというイメージがあった。(多いのは多いのだが。)

 精神的な負担という意味では、担任の方が数倍あると思った記憶がある。

 朝、子どもが来た時点で、意識は至る所に飛ばさなくてはいけない。
 教室に来た子どもたちの様子を見ている。宿題などの提出物がそろっているかどうかを見ている。

 保護者からの連絡を持ってくる子どもがいれば、それを読む。連絡帳を開きながら、昨日何かあったかと気をもむこともある。

 授業が始まれば、そもそも授業の準備はできているかを見る。忘れ物がないかも見る。授業中の態度や、理解の度合いも子どもたちの様子から判断する。

 時折、インターホンで職員室から連絡が飛び込んでくることがある。

 休み時間は、提出物のチェック、子どもたちが安全に過ごしているかを同時に見る。一人ぼっちの子どもや意地悪をしている子どもがいないかも意識を飛ばす。

 給食に至っては、実は最悪死ぬかもしれない状況は目の前にあるのだ。食べ方やアレルギーなども気を配る。

 子どもが帰って職員室にもどれば、今度は電話が気になる。電話が鳴って教頭が電話を取っているのを横目で見ながら「あれ?どこからか苦情?うちのクラス?」などと考えている自分がいる。

 そうなのだ、要するに朝から帰るまで、常に神経は緊張状態を強いられている。いつ何が起こるか分からない状況が、朝からずっと続いている。
 相手が子どもである以上、真剣に考えれば考えるほどに、教師の精神状況は常に緊張を維持しなければならなくなる。

 教務になったばかりの時に、仕事の多さとは裏腹に、この緊張状態からは距離を置くことができたという感覚があったことをよく覚えている。とりあえず、子どもたちへの意識を張り巡らせる必要がなくなったという感覚である。

 また、担任の仕事は、小さいけれど無視できないようなものがたくさんある。

 提出物の回収と返却だけでも、毎日膨大な量がある。

 テストをしたら、欠席の子どもの分をどうするか考えなければならない。保管しておいても、いつかはさせることになる。
(最近はテストをやっていないだけで、教委レベルまで苦情が行くこともある。)

 毎時間の勉強で使う道具もある。忘れた子どもへの対応もそれぞれ考える。

 何より、全ての子どもに意識を飛ばそうと思えば、それだけで情報の処理はかなりの量になる。
 授業中であれば、同時進行に子どもたち全員を頭に入れながら授業しなければならない。

 つまり、子どもといる間はワーキングメモリを酷使していると言っていい。
 同時進行でものすごい量の情報を処理している。相手が子どもであるだけに、デスクワークの処理とは異なる情報処理である。
 経験の浅い教師が、子どもの様子を見落としたり、あるいは配付物を忘れたりするのは、このワーキングメモリの使い方が不慣れだからである。

 教師の仕事は多忙である。
 同時に「多忙感」に襲われやすい。脳の使い方が、他の仕事と少々違うからだ。

 緊張状態の継続と、ワーキングメモリの酷使。これは仕事の量の問題ではない。
 教師として誠意がある人ほどに、無意識のうちにこの状態に自らを置いている。疲れるはずである。

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