感性と教育の関係

初等教育論

感性は教育できるのか、感性による教育は可能か

 子どもの感性はすばらしい、という意見はある。そうだろうと私も否定はしない。
 しかし、感性は教育によって育つものかと言えば、疑問がある。
 ましてや、感性によって教育をしようというのは暴論であろうとすら思う。

 子どもが創り出す詩に素敵な言葉がちりばめられているのを見ることがある。「大人にはこんな感性はなくなったよね。」というような世間の言葉もよく聞く。

 ここは詩に限定して考えよう。

 子どもがあまた持ち合わせている自分の言葉の中で、選びに選び抜いた言葉であるのなら、そこに感性を見出すかもしれない。

 しかし、おそらく現実は違う。

 子どもたちは大人に比べれば、はるかに少ない経験と、はるかに少ない語彙しか持ち合わせていない。その時に、経験を言葉で表現しようとするときに、その経験と語彙の少なさがゆえに微妙なミスマッチが生じる。
 似ているのだけれど、正確に言うとそのような表現はしないよね、というレベルである。
 子どもの言葉には、これがしばしば登場する。

 日常生活であれば、周りの大人はにっこり笑って聞き流し、いつかは分かるだろうと思っている。あるいは、その場で「こういう時はこんな風に言うんだよ」と教えることもあるかもしれない。

 これが「詩」という舞台であれば、ミスマッチを芸術として評価してしまうという勘違いが生じてしまう。
 大人であれば、そのミスマッチはもう起こらない。起こらないがゆえに、子どもがやってしまったミスマッチに目が留まる。そして、時としてそれに心を動かされる。

 子どもは詩人のように、意図的にあまたある言葉の中からその言葉を選んだのではない。
 限られた中からの苦肉の策だったのだ。
 だから、子どもの詩は、ごく平凡になりがちな中で時折大きな感動を呼ぶことがある。当たり外れがあるのだ。

 意図したわけでない子どもの結果に、一方的に心を動かされた大人の都合にすぎないのである。
 それはそれであっていいが、それを教育だというのなら、話は違う。間違った言葉は正してあげるべきであろう。

 この詩の制作の過程において、子どもの感性を育てた部分があるだろうか。偶然に出た言葉のミスマッチをもって「感性」だと、大人の方が一方的に勘違いしていることを教育と呼んではいけない。

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