天才を期待しない、天才を拒まない

初等教育論

天才を期待しない 天才を拒まない

 コロナウイルス対策からICT教育の推進、そこにこれまでの不登校問題などがからみあって、今公教育はそもそもどうあるべきかを問われ続けている。
 その現状を示す端的な言葉が「個別最適化」である。

 子どもたちの興味や特性に合わせて、授業を最適化すれば、それぞれがさらに伸びていくだろうという仮説の上に成り立っている論である。
 その論が本当に成立するかどうかは、別の項に譲ることにする。

 ここでは一斉授業への批判について応えていくことにする。

 そもそも現在の学校制度は、社会全体の底上げを目的として作られた経緯がある。
 それまで家庭が中心になされていた子どもへの教育が、社会全体の要請によって、広く平等に行われるようにという意図をもって、社会全体で子どもを育てるために進められてきたシステムである。

 子どもは学校に行けば、機会の平等を与えられ、等しく学習する権利を得られる。家庭の状況によっては、十分な教育を受けられない子どもたちでも、学校に来れば教育を受けることができる。そして一定の能力を開花させることができる。
 そういうシステムなのである。

 その後、年を経るごとに社会の多様な要望を受け入れてきた結果、本来の目的がどこにあったのか見失いつつあるが、本来は社会全体の底上げが目的なのである。
 この結果、特に我が国では識字率はほぼ100%である。国民のほとんどが文字が読めることは、社会全体の発展のためにどれだけ大きなことは今さら言うまでもない。
(むしろ当たり前になりすぎて、その重要性を忘れているところもあるかもしれないが。)

 つまり、学校教育はそもそも天才の育成を期待するために作られたシステムではないということである。

 社会をリードした偉人が、子どもの頃の学校生活でその才能を認められず苦労した話はよく聞く。そして、才能を理解しない学校の狭い視野を安易に批判する論調が一部にある。
 後出しじゃんけんのように、今足りないことを批判することは誰にでもできる。

 しかし、マスコミでステレオタイプのように発信されるような、子どもが全て一方的に教師の話を聞き、できのいい子どもが手を挙げて発表し褒められるような授業ばかりが、なされているわけではない。

 代わりに学校では、家庭にいては体験できないような、例えば理科実験、体育の運動、その他さまざまな用具を使った学習ができる。
 友だちと協力しながら、独りではできないような体験ができる。給食一つとっても、同じメニューを各家庭が再現するのは至難の業であるくらい多様なメニューがある。
 天才の育成を期待できなくても、それに代わる十分な効果は今なおある。
 特に初等教育は、実は世界でも高水準だと評価されている。もっと、教師は誇りを持ってもいい。

 とはいうものの、社会がこれだけ成熟してくると、従来のコンセプトのままでいいというわけにもいかなくなってきた。
 「底上げ」というコンセプトが一斉の成果を収めるようになった今、時代の流れに合わせて次の課題に向かわなくてはいけないのも理にかなった要望である。 

 ある分野領域において、他人よりも格段に抜きんでた才能を持っている子どもたちが時々現れる。
 その子どもたちの才能を生かしていくことが、本人のためだけでなく、社会全体のためにもなることがある。才能は社会全体のためにいかされるよう守らなければならない。

 つまり、学校は天才の育成を期待する場所ではないが、天才の存在を拒否することもやってはいけないのである。

 それにはコンセプトを一から編成しなおさなければならない。
 カリキュラムはどうするのか、独りで学習させる方がいいのか、飛び級すら検討に入れるべきなのか、問題はいくらでも出てくる。

 ただ、それはコンセプトの編成し直しの問題である。
 つまり、学校を統括する文部科学省や地方行政がまず設計図を描くべきことである。
 金も箱(建物、設備)も人も従来のままで、その中で現場が何とかしろという要請は、この問題に関わらず何度も聞かされてきた。
 そして一定の要望に現場は応えてきている。

 天才を失うことが社会の損失だと思うのなら、まずシステムの検討が必要である。
 もともとバスを作って運転してきていたのに、社会の要望だからと言って、そのバスで一人二人の子どもたちを時速200kmで運んでくれと言われても、困るだけである。
 スーパーカーをまず作るのはだれの責任なのか。

 ところが、もしかすると、行政自身は意外にその重要性を分かっていないかも、と最近思う。

初等教育論index へ

タイトルとURLをコピーしました