めあては不要 むしろ邪魔
小学校の授業ではめあてを書けと強制する考えが根強く残っている。どこで誰が言い出したのは知らないが、ともかくある。
結論から言えば、授業にめあては不要である。むしろ邪魔である。
人間が教育を受け始めるのは、いうまでもなく乳児からである。
人間は教育によってその能力を開花させるようにできている生物である。
だから、生まれた段階から学びは始まっている。それもものすごい勢いで吸収していく。
初めて言葉を覚えるときに、めあてなど不要である。
言葉を覚えようと言いながら覚えるのではなく、周りの人の言葉を聞きつつ、自分も話すことを身につけ、言葉を獲得していく。
食べ物の食べ方、排せつの仕方、服の着脱、たくさんのことを学んでいくが、どれも自然になされる行為であり、そこにめあては存在しない。
ふざけて書いているのではない。
乳児あるいは幼児の学びにおいて不要だっためあては、なぜ学校教育の段階で必要になるのか。そこに何の違いがあるのかという問いなのである。
私は、乳幼児期の学びと学童期の学びに本質的な違いはないと思っている。
子どもは基本的な態度として、周りの人や環境から常に学びの状態で存在している。
自分の知らないことが山のようにあり、生活をしているだけで今まで知らなかったことが飛び込んでくる。それを受け入れ自分の中に取り込んでいく。
教科教育も基本的に同じはずである。面白そうだったり、自分にとって役立ちそうと思えたりすれば、子どもは自然に耳を傾け、目を輝かせ、吸収しようとする。大人がすることをまねしようとする。
そこにめあての存在は不要である。
知りたいものが目の前にあるときに、そこにまっすぐ切り込み、吸収しようとおもうはずである。
それをあえて一度ブレーキをかけ、言語化し、読ませ、時に子どもに書かせようとする。
目の前の対象物から一度切り離される。意欲の継続という点で、取ってはいけない方法である。
教師が今から学習することを面白そうに見せ、不思議そうに考え、そして楽しそうに取り組むことで、子どもたちにも関わらせたいと思わせる方が自然だろう。そして、そうした技量こそが教師に求められるのではないだろうか。
<補足>
この議論を「0-100」で論じると、一つでもめあてが必要だという事例を挙げて、「ほら、みたことか」と主張する人が出てくる。
続編を書いてていねいに論じていく予定である。
めあては不要2「あいまいさ」と忖度へ続く