漢字練習を宿題にしてはいけない理由

初等教育論

漢字練習は宿題にしてはいけない

 大原則を確認しておこう。
 漢字練習は本来、宿題にしてはいけない。

 理由は一つである。
 我が国で使われる文字言語は、漢字と仮名を併用してつかうことが標準となっている。
 公用語だと考えていい。

 だとすれば、公立の義務教育諸学校において、公用語を教えずに、家庭学習に任せるようなことがあってはならない。
 何のための公立学校なのかと、批判をされたときに何の反論もできない。

 もちろん、習得の定着を目指すために、補充という意味での家庭学習はあるだろう。子どもたちの学力の差を埋めるために、ある程度の家庭の協力も仰がなければならない現実もある。

 ここで、「宿題依存率」の話が登場する。(参照「『宿題依存率』を下げる」
 すなわち、学校で学習をしている割合が高ければ高いほど、とりあえずは義務教育諸学校としての目的は果たしている。果たそうという努力は見える。
 完全100%学校だけで指導しなければならない、ということではない。
 また、漢字の指導といっても同音異義語や熟語の組み立てなど、とり方によっては学習のあり方は幅広く存在する。
 それらを全て学校で教えろ、という意味でもない。
 発展的な内容は、自学的な取り組みもできるだろうし、興味関心によっては、タブレットPCで自分で調べることだってあるだろう。そういうプラスアルファの学習を含んでいるわけでもない。

 これが、家庭での学習(つまり宿題)が前提となっているようでは、本当ならば、学校の存在を問われかねない問題なのである。
 例えば、新出漢字を覚えるために、毎日かなりの時間を使って漢字練習帳を埋めなければならないような方法はいかがなものか。それをしなければ漢字を覚えることができないのであれば、それは宿題に依存していると言われても仕方がないだろう。

 自分が新任の頃、ベテランの先輩が「学校は忙しいんだから、漢字くらい家でやってきてほしい。」と半分冗談、半分本気の愚痴を言っていたことを今でも覚えている。

 そして、今でも思う。それは間違いである。
 他の学習内容が多いので、漢字の指導ができないというのは本末転倒である。

 文字を習得させなければ、文も読めなければ、ましてやそれ以上の学習が成立するわけもない。
 つまり、文字の習得がまず大前提であり、あらゆる学習よりも文字の習得こそ優先させるべきなのである。他の学習内容の方こそ、指導方法を工夫して削ってでも、漢字の習得を優先させるべきである。

 日本には、宿題という文化が、学校と家庭の両方に安定的に根付いている。
 教師も保護者も、社会全体の大人のほとんどが「家で宿題をする」経験がある。
 小説でもドラマでも映画でも、至る所に宿題をする子どもたちの姿は登場する。47都道府県でやっていないところなど一つもない。

 だから、社会的・文化的に、誰もその存在を疑わない。

 重ねて言えば、戦後の日本の社会では、多くの家庭において父親が働きに出て、母親が家庭にいるというようなイメージがデフォルトになった。
 実際はそうでない家庭もたくさんあったのだが(我が家もそうだが)、家に帰れば主に母親が家にいて、子どもたちの宿題を見るというような暗黙の了解が、どこかしらあった。
 繰り返すが、全ての家庭がそうだったとは言わない。あくまでもイメージである。

 子どもたちは、学校から宿題を出される。それを家でやって、翌日学校に持っていく。その管理は保護者の仕事である。そんな慣習が積み上げられてきた。
 誰が決めたというわけでもない、この長きに渡る慣習によって、漢字練習は家でやってくるものだという暗黙の了解が、わが国にはあると思っている。
 それをさせないのは、保護者の教育がなっていないと、学校現場はけっこう真面目に考えてきた。
 保護者も我が子が宿題をしなければ、担任教師に申し訳なく思っていた。

 子どもの頃から今に至るまで、この「暗黙の了解」について、自分は経験がないとか、今初めて知ったという人はほとんどいないだろう。

 しかし、今一度原則に立ち返ろう。
 公用語の習得を家庭に依存するような、公立学校のシステムが果たしてあるべき姿なのだろうか。

 家庭が貧しかろうが、親が教育に関心を向けていなかろうが、ともかく登校さえすれば子どもたちに一定の学力を身につけさせるところが、公教育なのである。

 ましてや文字の習得は、その基本中の基本である。

 あらゆる学習の基盤となる文字の習得は、あらゆる学習よりも優先させてでも、一定量の時間とエネルギーをかけるべきであろう。

 文字の習得の時間を確保し、その上でさらに上に学習を積み上げていく。それができないのであれば、今やっている指導方法そのものを前提から考え直す必要がある。

 長年の慣習に妥協しないで、新しい教育のシステムを内部で構築するべき時期にきているのではないかと思うこの頃である。

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