研究授業7 ドラマを期待しない

学校システム

参観者も授業にドラマを期待しない

 個人的な感覚である。

 これまでもいろんな同僚や先輩、校外の講師などと授業について話してきたが、どうも多くの教師には、「授業というのは、ドラマのように後半で盛り上がっていくもの」というイメージがあるような気がしてならない。

 授業の冒頭に学習問題が出て、初めは分からないで困っている子どもたちがたくさんいる。
 それを自分で考え、友だちと協力し、解決の道を進んでいく。
 そして、授業の後半で「分かった!」という喜びがあふれて授業が終了する、というようなイメージである。

 しかし、実際に授業をすると、学習問題が出された段階で、子どもたちの様子はばらばら。
 すでに答えの出ている子どもと、何をしていいのか分からない子どもが混在している。
 時間が経つごとに、話し合いをしたり、黒板に情報が集まり(これが構造的板書)、何となく解決への道すじが見えてきそうな感じなのだが、やはりばらばら感が否めない。

 時間も終わりになってくると、どうしてもまとめなければならないから、子どもたちが納得していようがいまいが、終わりにもっていかれる。

 だから、後の協議会で「あの時の〇〇君の発言がよかったね。」というような意見が出てくる。
 それによって、授業の流れが(教師の意図する方向に)変わったと判断されたのであろう。
 まさにドラマである。

 私には、その一つの意見によって、全ての子どもたちの目が輝くようなことというのはかなり難しいのではないかと思っている。
 期待してたドラマのような終末を迎えることなく、授業が終わる。そんな感じである。

 推理ドラマや時代劇なら、終末に盛り上がりもあるだろう。
 しかし、授業は違う。授業とドラマの違いは、予定調和があるかないかである。

 ドラマの配役は、筋書きを知っており、セリフを結末に向かって積み上げていく。見せるためにやりとりがなされている。

 授業に置ける子どもたちは、そのようなことを考えていない。この授業の結末がどこにあるかも知らないし、ましてや見てくれている教師を盛り上げるために発言をしているわけでもない。個々の子どもたちも置かれている状況はさまざまなのである。

 ドラマだって、アドリブでやらせれば、役者さんも困るだろう。

 授業には授業の盛り上がるための構造がある。しかも盛り上がるのは見ている教師ではなく、当事者である子どもである。

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