研究授業6 ドラマは準備不要

学校システム

授業にドラマを準備しなくていい

 以前に市の指定研究発表会で、討論会の授業をしたことがある。校内の全学級が発表するのを、他校の参観者が自由に見る形式だった。

 私がした授業は、6年の社会科、政治単元である。
 当日の授業では、討論そのものの授業を公開した。

 子どもたちは手元に自分の資料を持っているので、私は何も準備しなくてよかったのだが、あまりに何もないということで黒板に、討論のタイトルを書き、写真を何枚か貼っておいた。
(今にして思えば、これも教師の見栄だ。)

 子どもたちは延々と話し続けた。私は途中で時折介入した記憶があるが、特に板書もせず、指名の順番を考えたりもせず、ある方向に議論の流れを持っていこうと操作もせず、ほとんど前で座って子どもの話を聞いていただけだった。

 指導案も、A4版1枚分程度の本時の展開を書く予定だったと記憶しているが、上記のような授業だから、本当に書くことがない。すかすかの指導案だった、と思う。

 後から校長先生から聞いた話だと、私の学級の参観者が一番多かったらしい。確かに教室の中にも廊下にも人がたくさんいたが、どこもそうかと思っていた。

 ある先生は、ちょっと見てほかの学級を回ろうと思っていたのだが、結局最後まで見てしまったと言っていたと聞く。
 私が地元で有名な教師というのなら、それをあてにする参観者も多かっただろう。しかし、地元の社会科研究会に属していたわけでもない。年齢も30歳半ば、普通の中堅教師である。

 ただ、参観者が多かったことを聞いたときに、あの淡々とした子どもたちのやりとりだけの授業に興味を持ってくれた人がそれなりにいたことをうれしく思った。

 立派な掲示物も、美しい板書もなく、子どもたちが話し続けるだけの授業でも、いやそんな授業だからこそ通り過ぎずに見続けてくれた人がいたという実感は、授業とはどうあるべきかを考える自分自身の指針にもなっていく。

 後の協議会で、子どもたちの意見の順番はお約束があったのかという質問があったのが、驚いた。あの順番を全部子どもたちが覚えているとすれば大したものだ。(笑)

 それほどに子どもたちの討論における「出番」の感覚は高かった。いつ切り出せばいいのかを子どもたち自身が分かっていたのだ。
 それを分からない教師にしてみれば、お約束に見えたかもしれない。

 指導案の文言も少なく、教室に行っても掲示物はほとんどなく、教師も板書しない。
 奇抜な展開があるわけでもない。
 参観者がびっくりするような仕掛けは何もないのである。

 子どもが淡々と話を進めていく。それだけの授業でも見る人は見る。作為のドラマは不要である。

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