教師の意識の中の「生産性」

働き方改革

 勤務時間が給料に反映されないという状況は、長きにわたって教師の文化に影響を与えてきた。
 手を抜いて仕事をしていた人もいたかもしれないが、むしろ頑張っていた人は多かったはずだ。今でもそうである。

 給料は安定していて、毎月必ず入ってくることは約束されている。だから、今すぐ生活でなくなるという不安は、とりあえずない。

 それを前提に仕事をすると自分のがんばりは、そのまま自分の達成感に反映される。
 子どもたちのために、プリントを用意した、教室掲示を作った、資料を探して教材の準備をしたなどさまざまな仕事をする。
 これが次の日の授業に生かされれば、がんばったなあと思える。

 給料の多少ではなく、子どもたちの姿と自分たちの努力の間に達成感を見出す。
 そうしたことに手ごたえを感じるからこそ、教師という道を選んでいるだろうとも思う。かく言う。自分自身もそうだったから。

 しかし、そこにはいくらかの無駄も生まれる危険をはらんでいる。

 例えば教科書を使わない授業はその一つ例に挙がるかもしれない。
 教科書を使わずに、自作のプリントを準備し、授業をする。
 プリントを作ったら、全てチェックすることになるし、子どもたちにも保管させなければならない。
 このプリントの作成だけでも(今ならPCで作成する)だけでも、かなりの時間を必要としてきたはずである。

 これがもし、教科書を使って授業をしても、同じだけの効果を得ることができるとしたらどうだろうか。
 あえてプリントを使って授業することは「一人の教師の信念」としては素晴らしいものがあるかもしれないが、使った時間は無駄だったと言えるかもしれない。
 教師の仕事は学力をつけることそのものだと考えるなら、その方法はどんな方法でからである。

 念のために付け加えれば、教科書を使わない方が子どもに学力が身に付いたのであれば、それは効果があったと言えるだろう。
 また、自作プリントで学習させると、子どもたちの意欲が高くなるという手ごたえがあるのなら、意味があるともいえる。(意欲を数値化することは難しくても。)

 しかし同じ程度の効果しかないのであれば、残念ながら教師の自己満足だと言われても仕方がない。
 
 やめても効果は変わらないいう仕事は、見直しをしていかなければならない。なぜなら、新しいことが次々と待ち受けているからである。

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