子どものコンフォートゾーン

初等教育論

コンフォートゾーン

 いつも漢字テストで60点だった子どもが、少しがんばった結果100点を取れたとする。その子どももとても喜んでいる。
 しかし、喜んでいるからと言って、次のテストでも同じように努力をするかと言えば話は全く別問題である。

 教師からしてみればこう思う。
 いつも成績が伸びないままでいたのに、努力をして結果が出たことが自分で分かったのだから、次からも同じように努力すればいい。そうすれば、またいい結果出てうれしいだろう、と。
(そして教師自身もうれしいから、つい期待してしまう。)

コンフォートゾーンという言葉がある。
 居心地のいい場所という心理学用語である。自分自身が負担をかけずに、安定した気持ちのままでいられる状態を指す。

 ずっと60点を取ってきた子どもは、その点数(と、勉強する状況)がコンフォートゾーンになっている可能性が高い。
 だから、一度100点を取っても、それはいわば「非日常」的なお祭りのような日であり、いつもこれでなくていいと思っているかもしれない。
 子ども自身は100点を居心地のいい感覚と意識していない可能性もある。そうなると、教師から「次のテストもがんばろう」と言われたら、「え?もうこれで十分だよ。」と心の中で感じているかもしれない。

 もちろん一度のテストで目が覚めるように努力を続ける子どももいる。そうした子どもたちには、満点が取れていなかった自分に納得していなかったり、方法が全く分かっていなかったりしたため今回開眼したということかもしれない。

 しかし、全員が一度のテストで変化するわけではないことを知っておくべきである。

 水泳を指導しているときに、何度泳いでも23mや24m、つまり直前で立つ子どもたちに出会ったことがある。そばで「あと少し」と声をかけているから、子どもたちにも距離はつかめているはずなのに、である。
 体育では、跳び箱や走り高跳びなどでも、能力的には問題がなさそうなのに躊躇して成果が出ない子どもがいる。個人的な仮説では、出せないのではなく、出さないのではないかと思っている。

 理屈では、技ができることや記録が伸びることはいいことだと分かっている。聞かれれば本人もできるようになりたいというだろう。
 しかし、心の奥底で一歩踏み出せないときがある。

 私はこれを「子ども特有のコンフォートゾーン」だと考えている。大人から見れば、できた方がいいに決まっている。子どもも理屈で言えば(言葉にさせれば)できるようになりたいという。
 しかし、心の奥では「今のままでいいよ。」という感覚が残っている。しかも、大人の価値観で言う「できる、できない」という評価は子どもにはあまり関係がない。

 それよりも昨日と同じ今日があればいいという感覚である。
 テストで60点取って「あーあ」と思いつつも、同時に「これがいつもの自分」と思っている部分もある。

 総じて子どもたちは、一般的な「成長」と呼ばれるような「できる」「わかる」という状態を好む傾向にある。
 それが子どもの特性ともいえる。これは「大きくなる」という身体的な特徴が子どもには当たり前であり(大人はいつの間にか自分の身長が伸びる感覚を忘れている。)
 それに伴い、「強くなる」「速くなる」という状態の変化も受け入れていることの延長線上にある。

 そうした感覚が基盤にありながら、どこかに「今のままがいい」という感覚もある。
 母親の懐にずっといたいような、今の安住の感覚をそのまま残しておきたい感覚である。

 それが現象として「テスト60点」かもしれない。子どもによっては、新しい挑戦や努力をするくらいなら「今のままがいい」と思っているかもしれない。
 それは怠惰であることとは、少し違う感覚である。人間は基本的に変化を望まない動物である。特別に困らないのであれば、現状は変えたくないという感覚を持っている。

 その感覚が、どこでどう出てくるかは、現代社会が複雑な分だけ分かりにくくなっている。

 誤解を恐れずにいえば、子どもの中には「あえて現状を変えないために、努力を拒否する」という感覚もあると思っておいた方がいい。

 「面倒」だとかいう感覚とは違う。「変わりたくない」という感覚である。

 かといって、「60点のままでいい」という子どもをそのままにしておくわけにもいかない。ここからが教師の指導である。

 続く

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