めあては不要2「あいまいさ」と忖度

初等教育論

めあてはいらない その2
前号「めあては不要」の続き

 授業において目標は必要である。教師は何らかの目標をもって、授業に臨むはずである。
 しかし、それを子どもに明示するかどうかは別問題である。
 ましてや、授業のたびにそれを板書し、子どもがノートに書き写すというような作業を毎時間のようにしなければならない理由はない。

 これを毎時間、必ず書くように「指導」されることがある。
 例えば国語で新出漢字の練習をするときにも、めあてが必要という人がいる。
 百歩譲って、めあては「新しい漢字を覚えよう」となるのかもしれないが、それをわざわざノートに書く必要があるだろうか。
 はっきり、ないと断言できる。その暇があれば1文字余計に練習できる。

 図工の授業で作品作りの続きをする場合、今日することは前回の続きだと子どもたちも分かっている。それでもめあては板書が必要か。子どもは何かに書く必要があるのか。

 算数の授業ではよく「かけ算の筆算の仕方を考えよう」というようなめあてが出されることがある。
 そもそも、このめあてになっている言葉そのものが突っ込みどころ満載なのである。

 「考えよう」ということは、考えればそれで終わりなのか、という揚げ足を取られる。
 というようなことを言えば、屁理屈を言っているように思われるかもしれない。しかし、子どもたちにはより的確な言葉を提示することは教師の務めであろう。

 ある種の発達特性のある子どもたちは、この言葉を本当に「額面通り」に受け取る可能性が高い。

 その子どもが授業の冒頭で、「先生!もう考えました!」と言ったとしたら、教師は何と答えるのだろうか。
「屁理屈言うな!」と叱るのであろうか。
 誠意ある教師は、こんなぬるい言葉は使わない。

 こうした言葉を一年を通して何十回、何百回と子どもに浴びせることにより「忖度」を教えているだけである。
 意味の輪郭の取りにくい言葉を投げかけ、大体を理解しろという行為が、私には学校教育に反していると思っている。

 ところが、算数の計算の学習では、もはやこれ以上書きようがないのである。
 本当ならば、計算の意味を理解し、筆算の仕方も理解し、実際に練習して、最後には自力でできるようになりましょう、という一連の活動が45分の中に詰め込まれているのだが、それを全て文章にしていたら、大変だからである。(笑)

 めあての文末はよく「〇〇しよう」となっている。

 これは教師が子どもに呼びかけるという意味では、悪くはないだろうと思う。教科書に記載されていると考えても問題はないだろう。
 しかし、子どもが自分のノートに「〇〇しよう」と書くのはおかしくないか。

 誰に呼びかけているのか。
 教師が呼びかけた場合、子どもはそれに呼応して「〇〇する」「〇〇できるようにする」と書き直すべきではないのか。

 これを本当に子どもが「かけ算の筆算の仕方を考える」と書いたとしよう。
 何とも座りの悪い文章になる。
 なぜか、言い切ればなおのこと「考える」だけにはっきりと限定されるからである。

 教師が授業の目標を立てるときに、教科や地方の研究会によって多少の違いはあるとはいえ、指導の三つの観点を踏まえた一定の量を必要とする文章にならざるを得ない。

 それを子どもに書かせようとするから、抽象的あるいは断片的な文章にならざるを得ないのである。  
 その結果として子どもに「全部書いていないけど、内容はおよそ理解してね」と忖度させるような文章になってしまう。

 何度も繰り返すが、そのようなぼんやりとした意味しか持たない文章を、年間に何百回も書かせ、子どもたちに何を身につけさせるつもりなのだろうか。

 ぼんやりとした言葉といえば、生活科に「秋とあそぼう」のような言葉を見つけることがある。

 これは、学校教育として許される抽象度なのか。

 読者諸氏は、秋と遊んだ経験はおありだろうか。私はない。子どもたちはこの言葉から何をイメージしているのかを、教師は本当に分かっているのだろうか。

 生活科であれば、子どもも7歳や8歳である。その経験値にしては、言葉の抽象度は高すぎないか。

 百歩譲って「秋をみつけよう」にしても、私には子どもに対する抽象度が高すぎると思っている。
 おそらく、多くの子どもたちは言葉の意味を理解していない。写真など別のものを介して何となく想像しているだけで、言葉は何の機能も果たしていない。

 その3は、授業において「めあてを子どもが書く」ことの弊害を述べる。
 めあては不要3 固執と混乱

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