研究授業24 協議会の攻防(上級編)

学校システム

協議会の攻防(上級編)

 研究授業の協議会をハイレベルにするための一提案である。

1 どんな授業でも「揚げ足取り」は可能である。

 そもそも教育という営みには完成型がない。これができれば完全な教育、というものは存在しないのである。
 人が多様である限り、教育もまた多様である。
 だとすれば、授業もまた完成型は存在しない。優れた授業はあるだろうが、完成された授業はない。

 これは逆に言えば、いくらでも「揚げ足取り」が可能だということだ。
 やっていることの反対を言えばいいのだ。
 子どもたちが討論をしていれば、「教師の指導はどこにいったのだ。」と言える。
 教師が説明しすぎると「子どもたちの自主性がない。」と言える。
 活動が多いと、考える時間がない、と言える。
 考えさせていると、もっと活動した方がいいと言える。

 授業時間は45分という限られた範囲である。
 何でも詰め込むには限界がある。授業を考えた時に、泣く泣く削るものが山のようにあったはずだ。

 だから、批判をするならば、その削ったものを指摘すればいい。
 その授業の中で、見えなかったもの、足りなかったものを指摘すれば、的確であるなしに関わらず、(笑)意見を言ったように見える。
 どんなに優れた授業であっても、この方法であれば何でもいえる。 

 授業者はこれに対して、反論を用意する。

 反論の第一は、「変わりに削るものを聞く」ということである。
 授業に対して、これをやった方がよかった、という意見がよく出される。先にも述べたように時間は45分という枠なのである。

 何かを入れれば、何かを削らねばならない。だから、そのまま尋ねる。

「今のご意見の案と取り入れるとしたら、代わりに何を削ったらいいでしょうか。」

 一度、本当にこの質問をしたことがあるのだが、答えはなかった。
 そんなことまで考えて意見を言う人は、ほとんどいない。ほとんどが印象批評だからだ。

 反論の第二は、「事実を聞く」ということである。
 テンポのいい授業をすると、「子どもには速すぎるのではないか。」という人がいる。

 これには「ついて来られない子どもたちがいましたか。」と聞く。授業のスピード感については、ほとんど教師の印象である。
 ついて来られないのは教師の方で、意外に子どもたちはついてきている。もし、本当について来られない子どもがいたのなら、それは真摯に受け止めて対応を考える。

 速さという点では「もっと意見交流の時間を取った方がいい」とか「子どもがノートを書く時間を取った方がいい」という意見も出る。
 この場合は第一の反論と同じである。
 「代わりに何を削ったらいいですか。」と尋ねる。

 こうしたやり取りの中で、具体的な意見が飛び交うのであれば、かなり質の高い協議会になろう。

2 協議会とはそもそも「後出しじゃんけん」である。

 授業は演劇ではないから、決められたストーリー通りにいくとは限らない。最大限の予測はするが、予測とは異なる終わり方をすることもある。
 だから指導案通りに終わらなかったり、不本意な形で終わったりすると、当然のごとく批判は出る。

 しかし、授業者も、授業前にはいくつものパターンを考えていたはずである。それでも本番では一つの方法しか選べない。それがうまくいくかどうかは、誰にも分からない。

 参観した教師が「ああすればよかったね。」という感想程度のことは、実は授業者も考えていたはずである。
 だから、意見を言う時にはあんまり偉そうなに言わない方がいい。

 授業者は「それくらい当然考えたんだよ!」と心の中で思っている。じゃんけんをすれば、後出しの方が勝つのは決まっている。

 授業者に納得してもらう意見を言うためには二つしかない。
 一つは、授業者が考えもしなかったような案を出すこと。
 「そうか、そんな手があったのか。」と思ってもらえるのなら、後出しにはならない。

 もう一つは、「代案」である。
 授業を解説するのではない。子どもに話をするかのように授業の流れを提示する。実際の協議会では、代案を見せるほどの時間はないだろうが考えるに値する。
 授業は理論だけでなく、具体的な活動である。発問と指示を伴った具体案を示すことができれば授業の学びは大きい。

(ただし、これはなかなかに難しい。説得力のある代案を短時間で示せるのは、かなり授業がうまい教師にしかできない。)

3 授業者は開き直れ

 協議会は「揚げ足取り」が可能な「後出しじゃんけん」である。
 提案した授業者の方が、議論をする上では圧倒的に不利である。

 だから(実際に口に出してはけんかになるが)心の中で
「だったら、代わりにやってみろ。」
 と思っておけばいい。(笑)

 ふざけているわけではない。
 授業は理論ではなく、実践である。「やってなんぼ」の世界である。

 しかも相手は子どもである。それが分かったうえでの研究授業である。

 ごくまれに「代わりにやってみましょうか。」と言い切れる教師もいるのだ。すでにその学級ではできないから「隣の学級で自分が代案をやってみましょうか。」と言える。

 しかし、そんな教師はほとんどいない。
 それが協議会のレベルだとすれば、授業者も批判に対して落ち込む必要もないということである。

 そう心の中で開き直った上で、耳を傾けていると、いくつかは自分の心に刺さってくるような意見をいただけることがある。
 そうした意見に巡り合ったら、教師を続けていく上でとてもラッキーなことである。

 同じ意見でも自分の経験年数や取り組み方で、受け取り方も違ってくる。だから、刺さってくる意見をもらえることは「めぐり合わせ」でもある。

 

 

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