文化の後追い
教育とは端的に言えば文化の後追いである。先人が積み上げてきた業績の歴史を、圧縮し効果的に伝えていくことで、人類の歴史を子どもたちに刻ませる営みである。
子どもたちの絵は、何も指導しなければ、グラスコーの壁画のような絵になる。あるいは少し成長すると、エジプトのピラミッドの壁画のような絵になる。体の動きに特徴がなく手足もまっすぐ伸びているだけのような絵である。
写実的な絵を描くようになったのは、それからずいぶん後である。人間の体の構造や光と影の表現方法、遠近法などは後になって考え出された技術である。
だから子どもの絵は放置していても、小さい時に描いていたままになる。人間が後に考え出したさまざまな技法は学ばなければ身につかない。
音楽にも同じことが言える。
学校の音楽ではまずリズムから教える。次にメロディー、そしてハーモニーである。音楽の発展もこの流れと同じである。
世界がまだ今ほどつながっていなかったにも関わらず、似たような楽器が世界各地には存在する。
その楽器の初期はいずれも打楽器である。そのリズム感に今なお心揺さぶられるのは、それが音楽の原初的な面白さなのかもしれない。
やがて、打楽器の音にも高低差が出る。学期も弦や笛が出てくる。世界のあちこちに同じようなものが存在している。それが人間の音楽の発達の歴史なのだろう。
数学も歴史がある。
数の概念の発展がそのままの形で教科書に示されていると言っていい。
始めは仲間という概念、そして多い少ないという比較、やがて数が誕生し、そのあとに計算が出てくる。計算は加法、減法、乗法、除法の順序で進化してきたのも歴史のとおりである。
科学でも、社会学でも基本的には同じである。
こう考えると、教育とは一人の人間の成長の中に、人類の歴史を凝縮して収めていく過程のように思える。また、人間自身がそうやって文化を発展させてきたのだということも理解できる。
教育は人類の歴史の後追いだと考えたときに、教育の方向が見える。
全ての歴史を教育の中に織り込むことはない。シンプルに美しく系統を作ることは可能なはずだ。
先人が思考錯誤の結果得たものを、子どもにも試行錯誤させる必要はない。
反対に、外してはいけない段階や、正しい順番というものも存在するだろう。
教育課程を編成するということが、文化の後追いをどう組み立てるかという壮大なプログラムだと考えると、一つ一つの単元の見え方も変わってくる。
学年間の違いとは何かについても同じである。