努力と環境

初等教育論

子どもと「努力」

「子どものコンフォートゾーン」の続き

 「漢字のテスト60点が子どものコンフォートゾーンです。」と言われて「では、子どもが安定しているので、このままでいきましょう。」と放置するわけにもいかない。
 子どもの将来を考えれば、子どものコンフォートゾーンも相対的に高い位置にあった方がいいのではないかと考える。
 そこで、あれこれと指導方法を考えるわけである。

 教師を含めて大人は「努力」が大切だという。
 しかし、この「努力」という言葉には非日常的な意味合いがないだろうか。平時にはない「緊急事態的取り組み」という感覚である。
 その意味では、大人も「忙しい」かもしれないが「努力」をしている人はまれではないだろうか。日常的に取り組んでいるけれど、毎日新しい何かに挑戦しているわけではない。

 子どもたちには「努力」を求めるよりは、コンフォートゾーンそのものを変えた方が、効果があると考えている。すなわち、努力を努力と感じさせないようにするのである。

 まずは環境を変えることである。
 例えば、学級全体の平均点が高いと、それが子どもたちのコンフォートゾーンになる可能性が高くなる。

 みんなが60点だと、それが「普通」だと思う。
 これがもしもみんな100点なら、100点が普通になる。

 「孟母三遷」と古くから言われるように、環境によって能力が引き出されることの違いはよく言われている。
 スポーツの強い学校というのは、そうした子どもたちを引き抜いてくるという面もあるが、全体として意欲も能力も高い友だちが多く、それが普通であることからいつの間にか自分自身も変わっていくということはよくある。

 教師は意図的に、こうした環境を作る。または、できあがっているように見せる。

 漢字のテストがどのくらいの点数なのかは、実は子どもたち自身は知らない。基準もない。まず自分の点数を見て、こんなものかと思い、次に座席の周りの子どもたちの情報が何となく入って、こんなものかと思う。その程度である。

 これを教師が公にしていく。
 指書きなどでていねいに指導した後のテストで点数が高いことが分かったときに、学級全体がどのくらいの状況にあるのかを確認する。

 「100点だった人?」と聞くだけでいい。
 子どもたちの手がざっと上がる。
 子どもたち自身もこの状況を見て、初めて学級全体を把握する。
 教師から聞かれて、自信満々に手を挙げたところ、学級全体から一気に手が挙がった。こんなにも100点が多いのか、とインプットされる。
 この時に残念ながら100点を取れていない子どもたちを責める必要もない。取れなかった子どもたちも学級の状態を把握しているからである。それだけで十分である。

 これを数回繰り返して、いつも同じ様子ならば子どもたちは「100点が普通」と思うようになる。
 このように学級全体の水準がどのくらいにあるのかを、子どもたちにも公開することで環境を自覚させることは可能である。

 ノートの見せあいこや、学習新聞の掲示、自学ノートの紹介などもここに含まれる。たいせつなことは、場合によっては一部の先頭集団を紹介することもあるのだが、同時に学級の全体がどのくらいにあるのかを紹介することも大切だということである。

 体育の学習は、この点良くも悪くも学級全体も自分もよく見える。体育にコンプレックスを感じる子どもたちが一定数いるのは、見えやすいからというのも理由の一つだろう。

 環境の制御は、テストの点数だけの問題ではない。
 例えば、言葉遣いや立ち居振る舞いの問題、マナーやルールの問題など、幅広く存在する。

 これは、子どもたちが一日の大半を学級で過ごすからである。そして、子どもたちのように経験量が少ないときほど、この一日の大半を過ごす学級の環境は、重要な影響を与えているということである。

 教師は、さまざまな指導を子どもたちに行っている。

 しかし、教師が全てを指導するのではなく、こうして環境を制御することで一定の水準を維持することは、とても有効な方法である。

 それでも、テストが60点の子どもが全員100点になるわけではない。

 コンフォートゾーンを意識し、まず環境を制御した後に、子どもたちへ「努力」を求めることになるのだが、ここにもいくつかのステップがある。

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