公教育というのは、学校以外の属性に影響を受けないことに存在の価値がある。
親の収入や、家での習い事、出身地や親の思想信条などに影響されず、能力に応じた機会が与えられていることに価値がある。
教科書が無償であることや、授業料を徴収しないことは、こうした大原則に則ってのことである。
それでも、ともすれば他の属性が学校現場に、入り込もうとする。それらを注意深く取り除く必要がある。
先に述べた表彰などはその典型である。学校で努力した結果でもないものを、学校で高く評価しているのはおかしい。(参考「学校に関係のない表彰」)
図工の材料を家庭で用意させることも、配慮が必要である。箱一つでも、家庭にあるかどうかわからない。安易に持ってこさせない。仮にお願いするにしても、期間をゆったり設け、さらにないならなくてもいい状態が必要だろう。
塾に行っている子どもたちが優遇されるような授業の在り方は、戒めなければならない。
(その意味で算数の「問題解決学習」は大反対である。)
保護者に毎回チェックをお願いする音読カードもやめた方がいい。保護者の中には、毎回子どもの音読を聞く余裕のない方もいる。それを子どもにお願いさせるのがかわいそうである。
親が来なければ成立しない二分の一成人式も難しいかもしれない。(これは自分もかつてやったことがあるので反省の意味をこめて)
家庭が子どもにとって安住の地であるとは限らない。また、生活が乱れ不衛生な環境であるかもしれない。
そんな子どもたちであっても、学校という場が、ともかくやって来れば、友だちがいて、給食を食べることができて、勉強ができるというように、ニュートラルな挑戦ができる場であってほしい。
子どもが負の連鎖を引きずるような学校教育であれば、存在を問われかねない。
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